上からホテル出発前に辺りを散策する。吹雪の中で車にチェーンを装着。下2点は積雪イメージ

悪夢の白い一日

Heavy Snow
2013.2.02

今年は寒い!でも、毎年同じこと言ってるような気もするから、これは老化現象のひとつなんだろうか。先月中旬にちょっとまとまった雪が降って、首都圏でも久しぶりの積雪をニュース番組では大きとりあげていた。たまに東京に雪が降ると、少し大騒ぎしすぎるんじゃないかと思う。「何だよ!それくらい。こちとらそれが日常だよ」と、雪国の人たちは苦々しく思っているはずだ。
ま、それはともかく、ぼくはその翌日、県外出張のため車で向かうことになった。当日は一転して晴れ上がり、眩しいくらい良い天気。いつも入る高速道路ICに近づくと、カーナビの様子がどうもおかしい。手前の交差点を曲がれとか言うので、ナビが故障したんだろうかと思っていたら、IC入口手前の左車線にトラックや乗用車が列をなして止まっているではないか。何のことはない、昨日の雪で高速道路が交通止めとなっていたのだ。仕方ないのでそのまま直進して、交通止めの終点となっているICを目指すことにした。ところがしばらく進むと渋滞した国道で、結局ほとんど動けなくなってしまった。iPhoneで調べてもなかなか欲しい情報が見つからない。電話してPCで情報収集してもらっても、現在の交通止め区間くらいしか分からず、時だけが刻々と過ぎていく。最寄りの駅から電車で向かっても到底間に合いそうもない。結局1時間ほどして今日はもう無理だと判断し、事情を説明して約束をキャンセルするお詫びの連絡を入て引き返すことにした。翌日の新聞によれば、結局ICが開通したのはそれから5時間後のことだった。いつ開通するとも分からないIC入り口に居並ぶ車列の中でじっと待っているドライバーの心境というのは一体どのようなものなのか。あきらめ?忍耐?淡い期待?今度機会があったら窓越しに声をかけて聞いてみよう。進むことも引き返すこともままならず、欲しい情報は何にも入ってこない。そんな車中で、ぼくが「悪夢の白い一日」と名付けた過去の記憶が突然蘇ってきた。
21世紀に入って間もないある年の1月下旬、雑誌創刊に向けた編集会議を長野山中のホテルですることになった。メンバーは中沢新一さん、写真家の港千尋さん、縄文図像研究者の田中基さん、当時中沢さんのアシスタントを務めていた馬淵千夏嬢(現在は講談社の学術文庫出版部に所属する編集者)、そして担当出版社の編集者とぼくの6名。甲府駅に集合して駅前で「ほうとう」を食べ、ボスコに移動して会議資料の準備などをしてから、一行は夕方ぼくの車でホテルに向けて出発した。(当時ぼくの乗っていたワゴン車にはマックス7名が乗車可能だった)道中はワイワイと楽しく盛り上がり、夕刻には目的地のホテルに無事到着。温泉と料理で寛いだあとは、遅くまで編集会議という充実の一日を終えた。問題はその翌日だ。
目覚めると辺り一面すっかり雪景色に変わっていた。それも半端な雪ではない。駐車場へ行くと車はみんなスノーマンみたいになっていて、どれが自分の車なのか分からない。一番上の写真は、雪に埋まったホテル周辺を朝散策している様子で、この時点ではまだ余裕が感じられる。今思えば、その日はじっとホテルで静かに過ごすべきだった。しかし売れっ子二人(中沢さんと港さん)はどうしても翌日には東京に戻らなくてはならないということで、ぼくらは山を下り、最寄りの駅を目指すことにした。
まず車の雪を下ろして出発の準備をしなくてはならない。ところが運転席側のドアが開かない。大雪に気が動転していたのだろう、あまりの寒さに鍵穴が凍ってしまったのだと早合点し(冷静に考えれば絶対にそんなことはない)、ホテルで湯を沸かしてもらいヤカン片手に鍵穴周辺を溶かしてみたり、まったく笑い話にもならない。結局、助手席側がエマージェンシーキーで開いたので一件落着。たぶん寒さでバッテリーが低下してしまい、すべてのドアキーをコントロールしている運転席側受信装置が作動しなくなっていたのが原因だったようだ。なんとかエンジンもかかり、いざ出発。しかし、雪はますます強く降ってくる。一応4本スタッドレスタイヤは履いていたものの新品でなかったためかこの大雪ではあまり用を成さない。仕方ないので途中見つけたガソリンスタンドでチェーンを購入して後輪にセット。(写真2枚目)しかし、ワイパーを最大スピードにしても降りつける雪で前が殆ど見えないから、度々止まって手で雪を掻き落とす。しかも広い道路に出るまでは小道を、まだかなり進まなくてはならない。周りに車もほとんど走っていない。一番怖かったのは雪で周りがまっ白になってしまい、どこからどこまでが道路なのかまったく分からなくなってしまったことだった。これは本当に恐ろしい。何度も脇の畑に乗り上げる。幸い窪みや川に落ちることだけは何とか免れたけど、正直いま、すごく危険な状況かも、とその時ばかりはかなり焦ってしまった。車中のメンバーも「危ない、危ない!」を連発して大騒ぎ。
やっとの思いでなんとか広い道路に辿りつき、他の車も見えてきたのでこれで助かったと思ったのも束の間、近隣の駅に行ってみると電車なんかすべて運休で運転再開の見込みもたっていないという。やはりこのまま車を進めるしかない。免許証所持者は、ぼくと港さんだけなのでここからは交代で運転することにした。国道を走ればいつもなら1時間ほどで甲府に戻れるから、この状況なら2〜3時間はかかるかも、なんて甘い考えだったとすぐに思い知らされる。国道はすでにすごい渋滞で、まるで亀の行進状態。それでも少しづつ動いていた車列は、次第の止まる時間が長くなり、とうとうピタリと動かなくなってしまった。日は傾いてくるし、この渋滞がどう解消されていくのか全く情報は入ってこない。当時はスマホなんてないから携帯電話で情報収集するしかない。あちこち電話して、インターネットで調べてもらっても何も分からない。必要な情報が、それを切実に必要としている人たちに、もっとも必要な時に伝わってこないという現実を痛感させられる。この国にはそういう危機管理に対するシステムがまったく用意されていないのだ。たぶんその状況はいまも同じようなものだろう。日本はずっと昔から、危機管理が本当に苦手な国だった。
その時、ぼくらはつくづく羊みたいな国民なんだなぁと思った。自然現象が引きおこしたことなんだから、ジタバタしたって仕方ない。じっと受け入れるしかないよ。黙々と車列の中で静か待っている人々の表情には、そんなあきらめの心境が読み取れる。中にはディズニーランドのアトラクション待ちみたいに、けっこうこの状況を楽しんでいる若者たちもいる。これが外国だったら、騒ぎ出したり暴れ出す人々も出て来るんじゃないだろうか。主張すればいいというものではないが、黙々と亀の行進を続ける隣りや対向車線の車列を眺めていて、かつて日本はこんな風にあの大戦に突き進んでいってしまったのかもしれないなんて考えてしまった。
なんとか雪は止んだが、車はまだ動かない。暗くなり気温も下がってきたので、暖をとるために車はアイドリングを続けるしかない。お腹も段々空いてきたので、誰かがお土産に買っておいた和菓子をみんなで食べ分ける。そうだ、ワインもあったぞ。でも、ワインオープナーがない。仕方ないので車に装備された道具類からドライバーを捜し出して栓のコルクを削り込み、混ざった細かなコルクを口から吹き出しながらワインを飲む。ぼくは運転するので口をつけなかったが、あのワインはさぞ格別だったことだろう。動き出す気配もないので、食料調達班が歩いてコンビニを探し出す。めぼしいものはあらかた売り切れで棚はガラガラだったが、それでも何とかカップ麺を手に入れて、お店でお湯を入れてもらい、無事全員夕食にありつくことができた。何キロも先にある大きなホテルにはまだ空き室があることが分かったが、この状況では車を乗り捨ててそこに歩いて行くこともできない。国道沿いの旅館も看板を手立てに予約の電話を入れるが、どこも満室という返事。なら道路沿いのモーテルでも、と思いきや、非情にも軒並みクローズの立て札が。やれやれこれじゃ最悪車中で夜明かしか、と半分覚悟する。
こういう閉塞状況では、心理としてかならず外部に繋がろうと考える。皆、各々携帯で連絡を取り合い現在の事態を説明し、相手に慰められたりするが、もちろんそれ以上状況の進展はのぞめない。結局大人しく羊の群れに戻るしかないのだ。じっとしていても仕方ないから車に2人くらい残っては、入れ替わり情報収集に当たる。どうやら現在の状況は、道路を塞いでいる故障車や脱輪した車を処理したり、除雪車も出て運行整備を進めているらしい。何となく口づてにそんな情報が伝わってきた。そして3時間くらい経ったら少しづつ動きはじめた。暗いアイスバーン状態の国道をチェーンを巻いた車にガクガク揺られながら、時速20kmくらいで出発地にノロノロと戻っていく。さすがに疲れてきた。一人二人と居眠りし始めた車内は次第に静かになっていく。結局、甲府に到着したのは、日付も変わる真夜中。朝、ホテルを発ってから18時間後のことだった。ぼくの自宅に到着して人心地つけ、こうして悪夢の白い一日はやっとその幕を閉じた。
閉鎖空間に長時間一緒にいると、何か不思議な連帯感が生じてくるものだ。一時期、ぼくらは会う度にあの日のことを語り合ったものだった。昨年の秋にも、青山ブックセンターで『野生の科学』『洞窟のなかの心』刊行記念として実現した中沢さんと港さんの対談でもどうやら話題となって、「「中沢さんに着いていったら遭難しかけて大変だった」と港さんが大暴露。「平坦な道からじゃ見られない景色だったでしょ?」と中沢所長が切り返し」なんてやりとりがあったみたいだ。
非日常的な出来事は過ぎてしまえば、忘れがたく懐かしい思い出になるのだろう。でも、諦めの悪いぼくは、ああいう状況で流れに身を任せることができず、「外とつながっていたい」「現在の状況を把握したい」「じっとしていられない」と、どうしても足掻いてしまう。だからやっぱり悪夢はいつまでたっても悪夢のままなのだ。束縛や拘束は根源的な恐怖となっている。いつも自由に選択できる環境を維持したい。これは誰だって願ってること。でもぼくはあの出来事の反動で、人一倍そこにエネルギーを注ぎ込む習性が身についてしまった。 かの美空ひばりが「 川の流れのように」で歌っている川の流れにまかせるような心境に、あぁ、ぼくの人生は、いつになったらこの身をまかせられるようになるのだろうか。


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