上から
 「いろは婦人」
 「野佛」自作俳句
 「椿簪図」1978年
 「蟠桃」1956年

2012.4.02

高校の恩師だった美術教師の三枝茂雄先生は、ぼくの生き方に大きな影響を与えた。たった3年間のことなのに、その存在感は深く心に刻み込まれている。(2010.3.02のブログで先生についてはすでに少し触れている)

前屈みになってせかせかと歩く小柄な先生は眉間にしわを寄せて、いつも何か深く考え込んでいる風だった。笑顔はほとんど見たことがない。美術の手ほどきを受けたこともあまりない。しかしぼくの中で先生は、顧問と美術部員という枠を越えた存在だった。それは先生が昔から文化活動を通じて両親と交流していたことや、先生の初恋の人がぼくの母方の叔母だったことを知り、近しく感じたことにもよるが、何よりもその芸術家としての存在感に圧倒されたからである。表現者の業として背負った孤独や苦難と格闘する先生の姿は、ぼくの青春期の記憶に鮮烈に焼きつけられている。

先生の絵はどこかで見たことのある何かを連想させるようなものでなく、それが独自の境地によって切りひらかれたものであることは、高校生のぼくにもすぐ分かった。鋭く流麗な線描によって浮かび上がる人物は、どことなく人間ばなれしていて、ときには神話に登場してくる動物を連想させたりもする。三枝作品にはさまざまな人間や動物が登場するが、ぼくはその背後にひとつの原型のようなものが浮かびあがってくるのを感じたことがある。実はさまざまにモチーフを変えながら、先生はたったひとつの原型を執拗に追い続けていたような気がしてならない。身を削り、絞り出すようにして格闘する、その制作プロセスを学生時代に何度か目撃したことがあるぼくは、それ以来、表現に対してそれまでのように楽しげに語ることはできなくなってしまった。

画壇や美術界、それに日本画、油彩画といったジャンル分けも本当はどうでもいいことなのだ。見たこともないものをこの世界にもちきたらせる使命を担った芸術家は(例えばゴッホやゴーギャン、そしてマティスといった印象派の画家たちが思い浮かぶ)世事から遠く離れ、たった一人で背負うしかない個人的な試練を引き受け、生みの苦しみと向かい合う。極論とたしなめられることを承知してあえて言えば、真の芸術家とは、やはり時代が求めたスケープゴート「scapegoat=身代わり・生贄(いけにえ)」なのではないだろうか。芸術家は自ら望んで歴史にその名を刻むことはできない。それは、彼らとは関係のないところで語られてゆく、ひとつの物語にすぎない。芸術家たちの関心事は、果たして「唯一無二」を生みだすことができたかどうか、この一点こそに集約されているはずだ。何の因果でこんなことを、という思いが心をかすめることもあるかもしれない。その苦しみも、そして達成感も、おそろしく個人的な現象なので、彼以外の人間には想像することすら叶わない。

先生は戦時中、敵弾が目をかすめて片眼の視力を失った。また、重度のアルコール依存症に苦しみ、数年に一度は入院生活を余儀なくされていた。しかしそんなことさえ些細なハンデキャップと思えるほどの突き動かされるような情熱をもって、その宿命的な画業の道を歩み、数多くの素晴らしい作品を遺した。

しらふは午前中だけ。日の傾く頃には決まって酩酊しているのが常だった。美術室の教壇の裏側には、焼酎の入ったガラスの大瓶が隠されていて、先生はときおりかがみ込んでは、柄杓ですくい呑む。まるで水を飲むような自然な仕草だ。次第に目つきが変わってくると、今日の酔っぱらった先生が出来上がるのだった。幸か不幸か先生の自宅は学校のすぐ隣りに建っていたので、ぼくらは正体を失った先生を担ぎ上げ、学友の目を避けるように運動場を横切り、おそらくは先生の仕業と思われる、一人がやっと通り抜けられるほど丸く切り取られたネットをくぐっては自宅を目指す。そして玄関を開けて、出てきた奥さんとともに先生を布団に横たえては部室に戻っていく、そんな毎日を送っていた。思えば、校長先生も同僚の教師たちも、美術部員らもみんなして、今にも砕け散ってしまいそうなこの「三枝茂雄というひとつの才能」を懸命に守ろうとしているかのようだった。

進学校の美術部に所属するぼくは当然のごとく美大進学を目指していたが、芸大は絵画科と工芸科、彫刻科や建築科などいくつかコースが分かれているため、2年にもなると進む方向をそろそろ決めなくてはならない。多くの受験生は絵画科か工芸科を選択していた。絵画科の試験科目は石膏デッサンと油彩に学科・面接、工芸科は鉛筆デッサンに水彩画と学科・面接。どうして選考方法が異なるのか深く考えることもなく、またその学科の先にどんな人生が連なっているのか、当時高校生のぼくらには、ぼんやりと想定することさえできなかった。

それはある夏休み合宿中の夜のことだった。めずらしく酒気のない先生が突然やってきて、ぼくを校庭に連れ出した。先生は絵画科と工芸科のどちらのコースを選ぶか決まったのかと聞いてきた。ぼくがまだ迷っていると答えると、人生には決断しなくてはならない時というものがあって、それには早いも遅いもない。今がその時だと考えればよい。これから校庭をお前と一緒に一周しよう。そしてその間に結論を出しなさいと告げられた。果たして自分の歩むべき道はどちらに開かれているのか、ぼくは無言の先生と並んで真っ暗い校庭を歩きながら考えた。そして一周したぼくは、先生の方に向き直り「絵画科に決めました」と答えた。先生は「そうか、険しい道だぞ」と言い残し、そのまま自宅に戻って行った。

今だから言えることだけど、その夜ぼくは回り道することを決めたのだ。仮に工芸科を選んでいたら、ぼくはいったいどんな人生を歩んでいたのだろう。それは誰にも分からない。今とたいして代わり映えないものかもしれないし、案外すんなりと在京企業に就職して、専門職デザイナーとしてそれなりのコースを歩んだのかもしれない。しかしあの夜、芸術家と一緒に歩きながら迷い、考え、選びとった一筋縄では行かない「芸術」という世界にほんの一時期でも触れたことで、デザイナーとしてそれなりに意味のある回り道をしたのだと今のぼくは考えている。

最後に、もう一人の同級生が見た三枝茂雄像を紹介したい。先生の回顧展図録に寄稿した中沢新一さんの文章を以下に全文掲載する。

*

ピューリファイ

中沢新一

私は三枝茂雄先生と、言葉をかわしたこともなかった。通っていた高校で、何度かお見かけしただけである。それなのに、三枝先生は、私の心に深い痕跡を残している。不思議なことがあるものだ。知り合いでもない、話をしたこともない、それなのに先生の存在の記憶は、私が「芸術」とか「人生」という言葉の意味を考えようとするたびごとに、鋭い閃光のように、私の中によみがえってくるのだ。そんなことがありうるのだろうか。しかし、三枝先生という存在の記憶は、いまも私にとって、確かに大きな意味を持っている。

はじめて三枝先生の姿をお見かけしたのは、高校に入って間もない頃の、昼下がりだった。私たちの教室は、古い木造の校舎の西の端にあり、さらにその奥のほうに、絵の具に汚れ、石膏の像が雑然と放置されている、美術室が接続していた。美術室には、普通の教室や理科室や音楽室にはないような、奇妙に大人びた空気がただよっていた。 その美術室には、放課後になると美術部の若者たちが、出入りしていた。彼らは、その頃の私が所属していたような少年たちとは、少しタイプが違っていた。少年たちにとっては、この高校の生徒であるということは、将来の社会的な成功につながる、確実な階段のステップに足をかけていることを意味していた。そこでは競争が、あたりまえで、それ以外の価値に没頭する者は、それだけで変わり者とみなされた。少年たちはみな単純で明るく、子供っぽく、政治的には激しい時代であったにもかかわらず、彼らの多くはまだ、政治的にはまったく無垢だった。

ところが、美術部の若者たちは、みずから望んで、早くも老け込んでしまおうと、努力しているかのように見えた。ほかの少年たちが、何の疑いをいだくこともなく、したがおうとしている価値に対しては、もはやなんの信頼もおいていない、というだけの成熟ぶりを見せ、かといって、政治的なイデオロギーに夢中になれるほど、楽天的でもなかった。彼らはまだ若いのに、苦行して、世の中で認められている、あらゆる価値から、自由であろうとしているように見えた。その美術部の若者たちの中心に、私は三枝先生という存在を、発見したのである。

午後の授業がはじまって、私たち少年たちが、すでに席について、教師が入ってくるのを待っているとき、その外の廊下を、三枝先生は二人の美術部の若者に肩にすがるようにして、西の奥の美術室に、引きずられていった。ひと目で、泥酔しているのがわかった。しかし、私にはその泥酔ぶりが、ふつうの酔っぱらいのものでないことが、すぐにわかった。美術室にひきずられていく、その姿を見たとき、不思議なことだが、私は凧を連想した。地上を支配しているのとはちがう、上空の風にあおられるのを楽しみながら、凧は、自分のことを尊敬している若者たちの、弱々しい凧糸を頼りに、空を舞っているのだ。

その頃、私は漢詩に夢中になっていたので、こんな連想をしたのである。中国では、仙人は凧のように、空を舞うことを理想としている。地上を支配している力のすべてから、離脱をとげ、いっさいの弁証法からも自由に、空に舞い上がる。そのとき、仙人は自分の中に抱えこまれた、宇宙と同じくらいに深い、魂の深淵を、地上に捨ててきたりはしないのである。魂の深淵は、大地に吸い込まれていくかわりに、その世界では、凧ともども、大空高く飛翔をとげるのだ。空に舞い上がった、魂の深淵。いたずらに深くまた暗くあることを拒絶した、真実の深淵が、廊下をひきずられていく、私にはそう感じられた。

それから、間もなく、高校では試験が始まった。そのとき、私ははじめて三枝先生を、間近で見た。先生は漢詩の監督にやってきた。先生はあきらかに、ほかの教師たちとはちがっていた。だいいち、酔っぱらっていた。そして、試験が開始されると、先生は試験用紙をとりあげて、「おお、李白だ」と大声で叫んで、問題に出ている李白の酒の詩を、中国語で朗々と、朗読しはじめたのである。それが終わると、こんどは先生は、記憶するかぎりの漢詩を、みごとな大きな声で、暗唱しはじめた。その朗唱は、少年たちのペースを錯乱した。私たちのクラスの漢詩の成績は、散々だった。しかし、私はじつに壮快な気分だった。この高校に来てよかった、と思った。私はそのとき、三枝先生の中に、真実の大人というものを発見できたからである。

三枝先生の記憶といえば、それぐらいのことなのである。それなのに、それが私の中には、強烈な痕跡を残している。これは本当に驚くべきことだ。たとえば、いまの私が、「芸術」という言葉の意味を、考えようとする。そうすると、とたんに三枝先生のことが、思い浮かべられるのだ。「芸術」は、存在の世界の外にうごめき、呼吸し活動を続けているものを、存在するとは別のやり方によって、私たちの世界の表面にまで引き出してくる行為だ、と私は思う。だから、それはたんなる「価値」をつくりださない。たんなる「価値」は、存在の世界にしっかりと足場をみいだして、そこで交換されたり、換算されたりできるものとなる。ところが、「芸術」がつくりだそうとしている特殊な「価値」は、この世界にひきだされてきてはいるが、ずうずうしくそこに存在しつづけることが不可能なやり方によって、この世にあるのだ。

「有(存在)」ではなく、「無」によってたとうとする、あらゆる東洋的な芸術が、このような存在とは別の仕方で生きることの可能性を、模索してきた。それはお金や名声として、存在の世界に足場をつくりだすもののすべてから、遠く離れた場所で、みずからを実現しようとしてきた。私は、今日ではもはやありえなくなった、そういう「芸術」を、三枝先生の中にみいだす。今日では、ほとんどすべての「アート」は、「有」の世界のことしか知らないし、知ろうとしていない。すでにしっかりとこの世界の中に存在してしまっているものを、変形したり、引用したり、組み合わせたりすることだけで、今日の「アート」は生産されつづけている。そこでは、すでに存在している「価値」を、さまざまに形態変換することによって、新しい「価値」の発生の幻想が、紡ぎだされている。

しかし、三枝先生の中には、それとはまったく異質な「芸術」が生きているのだ。その「芸術」は、「無」と「有(存在)」の境界面でつづけられる、カタストロフィックな変化を、凝視しつづけようとする。人間がつくりあげている世界の外、あるいは存在することの外で活動しつづけている、「ある」としか表現のできないあるものを、その境界面を超えてこちらの世界にもちきたらせようとして、しかし、最後までその境界面に立ち止まりつづけることによって、出現してきたものを、手軽な「価値」にすりかえてしまう、いっさいの不純を拒否しつづけようとする、純粋の行為。

三枝先生はそのような「芸術」を、そのままに生きようとされたことによって、私に二重の衝撃をあたえるのである。話をしたこともない、知り合いでもない人間が、ほかの人間の人生に、これほどの痕跡を残すなどということがありうるのだ。そのことを、私はよく知っている。

三枝茂雄展(1994年7月2日〜7月31日・山梨県立美術館)図録105〜106頁より

※ピューリファイ(Purifying)=浄化