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Shop Label_Antique SUB
Toy of The Tin Plate_Tricycle
Toy of The Tin Plate_Motorcycle
(Photo:Aoyagi Shigeru)

ブリキのおもちゃは捨てられない

Tin Toy
2011.7.03

ぼくは21歳からおよそ2年間ほど、古物商を経験したことがある。デザインをはじめるつもりで甲府駅前の1坪ほどの隙間スペースを借受けて事務所にしてはみたものの、その頃の地方都市なんて「デザインって何?」という時代だったから、およそ生産的な仕事なんて入ってこない。仕方なく料金はいらないからウインドーディスプレイをやらせてもらえないかと中心街にある洋装店の親父さんをくどいて、一ヶ月に、一度ほど飾り付けを担当させてもらうことになった。今考えれば素性も知れない馬の骨みたいな若者によく任せてくれたものだとその心意気には深く感謝している。
当時は銀座の和光を頂点とするウインドウディスプレイというジャンルがすでに確立していて、ぼくも興味津々だった。そこで高校時代の美術部の先輩を誘って、まるで展覧会に出品するようなノリで制作にとりかかった。ぼくらの記念すべき初仕事は、その頃好きだった女流彫刻家、エスコバル・マリソルばりの木製の立体物だった。大きな花のオブジェを顔に見立て、当時、版画家の池田満寿夫がよく作品のモチーフにしていた青空をボディに描き込んだ立体をウインドーに飾りつけてみた。洋装店の親父さんは「何だこりゃ〜」と驚きつつもそれなりに面白がってくれたのか、「まぁしばらく好きにやってみろ」と寛容さを示してくれた。そこで気をよくしたぼくらは、熱で変形させた蛍光アクリル板にブラックライトを照射してエッジを発光させたプチ・キネティックアートもどき立体物を洋服と組み合わせてみたり、自分たちの表現がはたして社会に通用するものなのか、手探りでさまざまな実験を重ねた。しかし、持ち出しばかりで商売とよぶにはほど遠く、結局それは世間知らずの若造が陥りがちな自己満足的行為にすぎなかった。
そんなぼくらを見かねたのか、ある日近所の人が事務所にやってきて仕事を少し手伝ってみないかともちかけてきた。ぼくより4つほどの年長にすぎないのに、やけに老成した印象を与えるその人物はビジネス旅館を大学生の時に親から任されていた経営者で、本業の傍ら骨董品収集にも夢中になっていた。趣味が高じたとはいえ、毎日40万円も骨董品の買い付けするこのコレクターはとうに素人の域を超えていた。(今は旅館の他に、実際に複数の骨董店も経営している)
特に心血を注いでいたのは明治・大正時代のガラス製品やランプ類、柱時計などの収集だった。元来、骨董品というものは欲しいものだけ買うということは許されないものらしい。そこで、欲しいものを入手するためにまとめ買いした余計な(?)骨董品を処分する必要が出てくる。自分で骨董屋を開業して販売したり、同業者に転売することもできるが、彼が考えたのはもっとゲリラ的な方法だった。処分品をトラックに山積みして南青山などの貸し店舗に持ち込んでは、一週間ほど「アンティークバザール」と称して出張販売するのだ。そこで声をかけてもらったぼくらは、この膠着状態から抜け出すために、渡りに船と誘いに乗ってしまった。
骨董品といっても、商品にするための工夫も求められる。たとえば文字盤が剥がれてしまった柱時計などは、あらかじめ文字盤のオリジナルをコピーした印刷物を用意しておき、それに紅茶などを霧吹きしたうえで天日干しして変色させ、経年処理を巧妙に施してから時計に貼って完成させる。複製というか、再生というか、何とも荒っぽいことをしたものである。また、骨董品を販売するためには「古物商」と「露天商」という二つの許可証(通称「鑑札」)の交付を受けなければならない。この役割は事務所の代表をしていた僕でなく、美術部の先輩が担ってくれた。こうしてぼくらは定期的に何度か東京へ繰り出しては、バザールなるものを開催した。
驚くべきことに、これがけっこう売れたのだった。都会にはさまざまなコレクターが密集していて、一週間もすると完売に近い状態になる。時には演出家としてデビューして間もない蜷川幸雄がやってきたり、女優、松尾嘉代の旦那さんが手広く飲食店を経営していて、お店に飾るのだと柱時計をまとめ買いしてくれたこともあった。この頃ぼくらの周辺にはアルバイトの男子高校生たちやヒッピーみたいな若者も集まってきて、何とも騒々しいハレの日々が続いた。それはおそらくぼくの人生でもっとも社交的に過ごした時期だったといえるだろう。しかし成り行きとはいえ、自分が好きでもないのに骨董の世界などにかかわってしまったことに、ぼくは次第に戸惑いを感じるようになっていった。
骨董品にはまず希少価値が求められる。古いだけではただのガラクタ。もちろん「用の美」の純然たる民芸品とも棲み分けられていて、骨董品は美術品に近い、年代物の工芸品といったらよいのだろうか。もちろん贋作も多い。知識の浅いコレクターは、その道のプロの餌食となることも少なくない。この世界では偽物を掴まされても、それが犯罪とされることはあまりなく、知らない方が悪いのだという見方が幅をきかす。たしかに骨董品を愛で、味わうことは文化的行為といえよう。しかしコレクター心理というのはなかなかにやっかいなもので、独占欲や背徳的な優越感を帯びていることが多い。希少性が高く高価な逸品は、めったに人目に触れることもなくコレクターの秘蔵庫に眠っていて、寝静まった深夜などに密かに限られたものだけに鑑賞される。
業者が買い付けに集まる「市」は毎月1日に開催されていた。骨董品の入ったダンボールが所狭しと並べられ、中を見ることが許されない状態でそれに値がつけられる。売買はこうして封をしたまま行われるのだが、「業」や「欲」がもつれ合い、騙し騙されのバトルが繰り広げられていく。そこでは誰もがみんな狸になる。狸の集会から戻ってきたぼくは、いつも深い疲労感に沈むのが常だった。
やがてぼくはこの世界はどうも性にあわないと気づきはじめ、骨董から距離をおくようになっていく。反動もあって、それなら骨董店の対極にあるような「お気軽なガラクタ屋」にしてやれと、ポップなショップに模様替えすることにした。看板には「Antique SUB」。(当時有名な「さぶ」というホモ雑誌があってよく誤解された。いまだにぼくのことをサブちゃんなんて呼ぶ人と再会することがあるとドキッとする。もちろんサブカルチャーの「SUB」です)棚には美大の友人たちから送られてきた陶器などが並ぶ。また、くるぶしから切り落とされたやけにリアルな足のローソクとか、得体の知れない不気味なオブジェを、売れたらしめたものと持ち込む作家たちもいた。こうして店内は次第に不思議な雰囲気を醸し出してくる。下北沢あたりで開業してたらけっこうイケていたかもしれないが、当時の田舎町ではなかなか理解されるものではなかった。小林君がおかしなお店をはじめたらしいという噂が流れ、時折友人たちも面白半分に覗きにやってきた。若き日の中沢新一さんもそんな一人だった。一番上の画像は、売れた商品を入れる茶袋に貼っていたショップラベル。あらためて眺めてみると、まるで香の抜けた横尾忠則のコラージュ版画みたいだ。
日銭を稼ぐためにはじめたこともある。真鍮製の丸線をペンチで変形させて作る一筆書きのネームバッチ。これは外国人が路地などで手作りアクセサリーを売っているのを見て思いついた。これがけっこう当たった。近くの女子高生などの間で評判になり、連日下校時には年頃の子たちがやってきては「asami」とか作っては、ハイ!真鍮200円、君はシルバーだから400円!なんて、なんともコマイ商売をしていたものだ。
ぼくはまったく商売と縁のない勤め人の家に育ったから、小さな頃から何となく商売には憧れに近い気持ちを抱いてた。一時期は本気で寿司職人になりたいと考えたこともある。だからこんな経験をいつかはしてみたかったのだ。商売の基本を学ぼうと出納帳を買ってきては、見よう見まねで慣れない帳簿作りにもトライした。
ある時、別の美術部の大先輩がやってきて、少しばかり事業資金(当時のぼくには大金だったが)を渡してくれた。商売なんて実際にやってみなければ分からないことばかり。だからこれを、自分が売れると思うものを仕入れて販売する、商売の基本学習資金として使ってみたらいいと言う。この人は生粋の商売屋育ちで商人根性をしっかり身につけているのに、どうしてこんな商才のなさそうな後輩に目を掛けてくれるんだろうと思ったが、根が楽天的なぼくは、儲けを渡せなくても元金が返せたらいいやと思い直し、その厚意に甘えることにした。
ほどなく、TVの「はじめてのおつかい」に出てくる子供みたいなぎこちなさで、ぼくは東京のかっぱ橋問屋街に向かった。行き当たりばったりの素人仕入れで、洋服や日用雑貨やら、かなり散漫な仕入れをしてしまった記憶がある。もちろんそんな商品が売り尽くせるわけもなく、苦し紛れの特売セールも空しく、ショップの倉庫には在庫品が積み上げられる。 この先輩にはなんの恩返しもできなかったばかりか、その後も経営上の悩みにのってもらったり、ボスコの設立時には名前だけの取締役も引き受けていただいた。
いくつもの幸運に恵まれたのにもかかわらず、結局ぼくはこの商売を続けることができなかった。当たり前のことだけど、対面接客販売は、ひたすら客が来るのを待ち続けることしかできない。「商い」とはよくいったものだ。「商い」が、客待ちを「飽きない」ことだと合点するまで、ぼくはずいぶん遠回りをした。自分が飽きずに待ち続けることができない性分だと気づいた時、勝手に自分が描いていた商売という幻想からやっと解き放された。これは自分の仕事ではない。負け惜しみかもしれないが、やってみたからこそ分かったことだった。そして、遅まきながらデザインに向かって踏み出していく覚悟をかためたそのとき、ぼくはすでに24歳になっていた。
下の写真2点は90年代、雑誌の裏表紙に連載するために撮影されたブリキのおもちゃ。骨董品への反動として収集しはじめたものだ。「開運!なんでも鑑定団」でおなじみの北原照久さんはその道の第一人者で、いまでこそブリキのおもちゃは大人の立派なジャンルとして定着してるが、その頃はまだまだ子供の玩具に過ぎなかった。廃業間近の駄菓子屋さんの倉庫から探し出しては、ショップに並べたりしていた。売れ残ったおもちゃにはパーツの足りないものも少なくないが、愛着は薄れることはない。ダンボールに保存して時々デザインモチーフとして登場してもらったりした。多くは戦後、アメリカに輸出するために作られたものだという。だからアメリカ人好みにデザインがややデフォルメされていたりするが、細部には日本人特有の繊細さが宿っている。なによりもこのチープさが捨てがたい。ぼくはこういうお店をつくりたかったのだ。


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