from the top
Live Album Cover : Murahachibu
Album Cover : Akira Kobayashi
First Album Cover : Wataru Takada

2011.6.02

つい先ほどまで見ていた夢の生々しさも、目覚めてしばらくすれば紫煙のごとく跡形もなく消えてしまう。数十年も昔の記憶も夢と同じようなもので、あらかたは見事に消失し、思い出すことも叶わない。ただ、移動中ボンヤリと車窓を流れる風景を眺めていると、思いがけない記憶の断片がふとよみがえってきたりすることがある。それらはまるで記憶の地層に行き着く途上でひっかかり、皮、へた、根がきれいにそぎ落とされた玉葱のように生々しいむき出し状態で、完結していながら、やはり見事に断片的なのである。どうしてそんな記憶が残っているのか説明することは難しいが、それがまぎれもなく自分自身のものであることだけは間違いない。

先月放映されたNHKのETV特集「カズオ・イシグロをさがして」を途中からぼんやり見ていたら、番組終盤でその作家がこんなことを言っていた。大切な人を失った悲しみは避けることはできないが、残された者の大切な記憶まで奪うことはできない。これこそが運命に対して人間の示すことのできるささやかな勝利なのだと。細かな言い回しは定かでないが、たぶんこんなコメントだったと思う。日本の血筋をもつカズオ・イシグロは、ブッカー賞受賞後、現代イギリスを代表する作家として世界中に幅広い読者層を獲得している。このコメントは一貫して記憶をテーマとしてきたこの作家が、公開中の映画化された小説「わたしを離さないで」で問いかけた、命のありようから導き出したひとつの視点だ。

実はこの番組を制作したのは、以前ぼくの地元の支局にも勤務したことのある渡辺考さん。彼は「ギャラクシー賞受賞ドキュメンタリスト」として活躍中の気鋭のTVディレクターで、平成6年には、やはりETV特集で青木ヶ原樹海をテーマとした中沢新一さんの「輪廻の森・樹海」も制作している。当時、中沢さんから託されたといって19世紀イタリアのカトリック教育家、ヨハネ・ボスコの生涯を綴った真っ赤な分厚い「聖ドン・ボスコ」を届けてくれたり、その後も何度かオフィスに遊びにやってきたことのある、衛星ハイビジョン局、番組制作局を経て現在、福岡放送局に勤務している熱い放送人だ。

その渡辺さんが制作した番組を偶然見たぼくは、ひとしきり記憶について思いを巡らせ、運命に対峙することのできる記憶をひとまず「蘇りの記憶」と名付けてみた。ぼくの蘇りの記憶の多くは青春期のものばかりだ。あらゆる可能性に向かってひらかれているはずなのに、喪失の悲しみに満たされていた時代。誰かが若さとは痛々しさそのものだといっていたが、すべてが宙ぶらりんで、なにもまだ始まっていなかった二十歳前後の記憶は、どれもこれも鉛のような重い徒労感に押しつぶされそうになっていたり、ヒリヒリする痛みをともなうものばかりだ。

やはり旅の記憶が多い。若者の特権ともいえる当て所ない旅。引きこもりがちだったぼくにもそんな旅が数回あった。東京から故郷に戻ってしばらくたった晩冬のある日、ぼくは夜行列車に乗り込み、上越、糸魚川、富山、金沢、福井と日本海沿岸路線を走る鈍行列車の旅に出た。途中下車することもなく、敦賀、大津、京都を経由して神戸に向かった。それはぼくなりのリセットの旅だった。気分としては、当時流行っていたチューリップの「心の旅」では決してなく、「窓は夜霧に濡れて都すでに遠のく」と唄いだす小林旭の「北帰行」に限りなく近かった。

また、進路を西にとったのにはぼくなりの理由があった。契機はエレックレコードから発売された「村八分」の2枚組のレコードを聴いたことだった。「村八分」は世に出ることを頑なに拒否し続け、デビュー当時からすでに伝説となっていたロックグループだった。Chahboと呼ばれたヴォーカルの柴田和志(1994年死去)は、サイケデリックなまはげのようないでたちで差別用語満載の過激なメッセージを舞台から観客に向かっては吐き出していた。元祖、忌野清志郎がすでにそこに居た。そしてギターは山口富士夫。ぼくは彼のギターにしびれていた。一介のギタリストが一介の若者にとっての聖人となる、そんなことが可能な時代だった。唯一のレコードとなった彼らのアルバムは、1973年5月5日、京都大学西部講堂でのライブ演奏を集録したものだった。これを聴いたぼくは、ラジカルの聖地は西方にあるに違いない、という根拠のない確信に誘われるように旅に出た。

何処へ行って何をして、どのように帰ってきたのかほとんど覚えていない。ひとつだけ思い出せるのは、宝塚のある上品なお宅に一泊させてもらったことだ。東京にいた頃在籍していた美術研究所に、宝塚から絵の勉強で来ていた研究生の女性がいた。ぼくは受験枠で入所したからまだ二十歳前だったが大半の研究生は社会人だったので、その女性(Tさん)もおそらく二十代半ばだったのではないだろうか。彼女は地元での縁談がまとまり(お相手はお医者さん)故郷に戻るためぼくと同時期に退所したので、それを機に少しだけ手紙のやりとりをした時期がある。そこで彼女は、関西にきたらぜひ一度遊びにきたらと誘ってくれた。一人娘だったTさんは弟のようにぼくに接してくれていたから、たぶんそれも田舎モノの若者へのリップサービスだったのに違いない。しかし真に受けたぼくは厚かましくも門をたたいてしまったのだ。心優しいTさんはそんなぼくを快く迎え入れてくれたうえに、一泊していったらいいとまで言ってくれた。KYなぼくが言葉に甘えたことは言うまでもない。Tさんのお父さんは全国の高速道路に設置されている照明灯を開発した方だとかで、自分とは縁遠い上品な家庭に押しかけてしまった居心地の悪さだけが強く印象に残っている。どこがラジカルな西方の聖地なんだと自分で自分に突っ込みを入れたくなるけれど、その後数回旅した関西の記憶はどれも似たようなものばかりだ。

うだるような真夏の旅では、先輩を頼って宿がわりに転がり込んだ京大の暗い教室でかぶりついた、生暖かくて不味い西瓜の食感が忘れられない。高田渡のファーストアルバム「ごあいさつ」の「珈琲不演唱(コーヒーブルース)」で唄われていたイノダ(京都堺三条のイノダコーヒー)に行ってみようと思い立った旅もある。そこで手の平を温めたマグカップのぬくもりと量感は今も記憶の中に残っている。あるときは、北野外国人倶楽部の建物の脇から神戸を見下ろし、この街なら暮らしてみてもいいなとぼんやりと考えたりしたこともあった。そこに吹いていた浜風の感触も懐かしい。どれもこれもしょうもない記憶の断片ばかりだ。でも、なんの役にもたちそうもない、まわり道の思い出が消えてしまわないのはなぜなんだろう。生きていくのに必要なものだから?誰か知っていたら教えてほしい。

人にまつわる記憶も同じようなもので、人生の一点ですれちがっただけなのに不思議なことに鮮明に残る記憶も少なくない。例えば高校時代の同級生の中から実業家として在京企業で名を成した人物といえば、すぐに3人ほどが思い浮かぶ。彼らの現況が伝わってくると、不明だった消息を飛び越えて瞬時に過去の記憶がよみがえってくる。

古屋文明さんは2006年から大手出版取次企業の日販(日本出版販売)のトップとなり、現在も社長として活躍中だ。JTBの次期社長との呼び声も高い常務取締役の志賀典人さんは、200社に迫るグループ企業の経営企画や事業とIT部門を束ねるCIOとして巨大グループを牽引している。大久保好男さんは今月開催される日本テレビの株主総会で社長に昇格することが内定したそうだ。

そこでぼくは思いつき、卒業アルバムを開いて彼らの寄せ書きを探してみた。古屋文明さんは「造反有理」と書き残した。「造反有理」という言葉は「上の者に反抗するには理由がある」という意味だ。「謀反にこそ正しい道理がある」と解釈されて文化大革命では紅衛兵の掲げるスローガンにもなった。ナルホドね、「造反」を志したわけだ。中学から一緒でいつも物静かに微笑んでいる印象ばかり残っている志賀典人さんは「歴史は俺がつくる」と宣言していて、長い時を経て改めて彼の知らない一面を見せられたような気がした。一番おもしろかったのが大久保好男さん。越境通学組の秀才で、いつも背筋をのばして笑顔なんて見た記憶がないほど生真面な学生だったと思っていたのに、彼は「寄せ書きなんか書きたくねえや…    大久保」と律儀な筆跡で書き残していた。それが茶目っ気なのか直情さなのか分からないが、思わず笑ってしまった。ちなみに、同じく寄せ書きなんかしたくなかったぼくは相合傘を描き、親友のウエダマサル君を誘って二人して名前を並べてカナ書きしたが、大久保さんに較べたら何とも軟弱だったなぁ。(その後、上田優君は市川準に師事して電通プロックス[合併して現在は電通テック]のCMディレクターとなり、数多くのCMを世に出した)

いつだって若者は、押しつぶされそうな不安やいらだちを、過剰な気負いや、さもなくば覚えたてのシニカルな態度でやり過ごそうとする。やがてそんな混乱の中から何かに押しだされるようにして可能性を選別し、つまずきながらもそろそろとコースに走り出していく。そうして、みんな同じ時代をそれぞれの場所で生きてきた。

到達点あってのまわり道。そもそも人生に到着地なんてないんだとしたら、そこには近道もまわり道も存在しないし、役にたちそうもない無駄なことなんて何もないことになる。ただ生きているだけで、それはなんてステキなことなんだろうと実感するその瞬間のために、蘇りの記憶の糧となった断片たちはずっと息をひそめて待っている。