from the top
Portraitphoto_Golden Gate Quartet
Illustration_Yanagihala Ryohei
Covers_Yoshu Mame Tengoku

2011.5.03

ゴールデン・ゲイト・カルテット(Golden Gate Quartet)=金門四重唱団」は1931年にレコードデビューした、初期ゴスペルを代表するといわれる米国のジャズコーラスグループ。白人宗教歌や黒人霊歌の面影も残しながら黒人ならではのグルーヴィーなアカペラシンギングを確立したといわれる彼らは、50〜60年代何度も来日して各地でコンサートを開いている。定かな記憶ではないが、たぶん10歳前後だったぼくは、家族に連れられて地元のコンサート会場で彼らの歌を聴いたことがある。
初めて聴いたゴスペル。間近にする異国の黒人男性たち。それはちょっとしたカルチャーショックだった。聴いたこともない音楽なのに、なぜか懐かしい。そして大きくて力強く、包み込まれるような安堵感。さまざまなジャンルのブラックミュージックを聴くたびに、なんともいえない親しみに近い感情がわきおこってくるのは、背後にいつも金門四重唱団の記憶がオーバーラップしてくるからなのだろう。
また、貧しいことが特別なことでもなかった昭和30年代、我が家には興味ひかれるようなモノはほとんどなかったが、父がどこからか入手してきたサントリー(当時は壽屋)の広報誌「洋酒天国」だけは別だった。この小さな雑誌をひそかに手にとっては眺めていると、ぼくがまだ知らない世界を少しだけ覗き見ることができるような気がしたものだった。それに「週刊プレイボーイ」などに掲載されている写真に較べたら、それはそれはかわいいお色気写真だけど、毎号水着のセミヌード・ページも挟み込まれていて、ちょっとだけ背徳感も感じながらぼくは粋な大人の世界に胸ときめかせていた。
「洋酒天国」という誌名は佐治敬三が発案したもので、創業者・鳥井信治郎の「やってみなはれ」の精神はここにもしっかりと受け継がれている。創刊人には開高健坂根進柳原良平が名を連ねる。(のちに編集部は山口瞳なども輩出している)コピーライターのさきがけとなった開高健の横断的(独断的?)編集手法。当時はまだ創世記を歩んでいた坂根進の目指したモダンデザイン。(サンアドの創設者でもある坂根さんには亡くなる数年前にお目にかかる機会があった)そしてイラストレーターの草分けでアンクルトリスの生みの親、柳原良平。この3人が伸びやかに号を重ねた洒脱なこの広報誌は、とても異彩を放っていたと思う。こんな広報誌はそれまでなかったし、宣伝色を抑えて好きことだけやるという逆説的広報手法は、今もサントリーが育んできた社風として直系デザインプロダクション「サンアド」の広告物の随所に発見することができる。それから、心ときめかされたのは「洋酒マメ天国」。姉妹本として1967年から12回に分けて刊行された豆本全集だ。創設トリオに加え、澁澤龍彦植草甚一和田誠長尾みのる秋山庄太郎なども参加してたそうだ。当時のぼくはそんなこと知るよしもないが、それでも(お金をかけたという意味でなく)贅沢に作られたものだということはすぐに分かった。何といっても雑誌イメージの要となっているカバーイラストがステキだった。「船キチ良平」と自称するほど船好きな柳原良平氏は、2000年には東海汽船の名誉船長に就任したり、好きなことして人生という海原を航海していくというなんとも贅沢な生き方を今も悠々と実践中だ。
ところでぼくは以前のブログ(2010.1.1)でこんなことを書いたことがある。
「好むと好まざるとにかかわらず、幼少期に心の奥底に感光してしまった光景は消し去ることは難しい。そして、醸成された原風景はやがてデザインを生み出すダイナモとなっていく。」
その時テーマとした松永真デザインの原風景は、戦後の日本から仰ぎ見た豊かなアメリカの姿だったが、ぼくの「金門四重唱団」や「洋酒天国」の記憶は果たしてデザインを生み出すダイナモといえる原風景なのだろうか。
そもそもぼくはどうしてデザインという職業に自分が歩み出したのか思い出すことができない。なんとしてもデザイナーになるのだと決意した瞬間の記憶もなく、気がついたらこんなことをしていたという感じなのだ。
見たこともないものが世界にはたくさんあって、それを探し出す喜びというものがある。また、人と違うことを考えたりしたりする快感や楽しさというものもある。そして、大人になっても好きなことをして生きていくのは決して不可能なことではないのだから、その気さえあれば君だってできるはずさ、とささやきかけてくる声。「金門四重唱団」や「洋酒天国」を通過しながらぼくの心に感光した幼少期の記憶を言葉にしたらこんな風になるのだろうが、それがデザインの原風景だといえる確信はない。それらは多くの少年少女たちが通過してくる、思春期の記憶の森のようなものだ。しかし歳を重ねるにしたがって、この森の記憶が自分の深部に思いのほか強く焼付けられていたことに気づくようになる。結局大人になりきっていないだけなのかもしれないが、いまだに見たこともないものを探し出し、考えてもみなかったアイデアに心躍らせ、抗いがたい美しさや明快で奥深いものに惹かれつづけている。そして実はこうした内在する断片的な欲望がデザインを吸着してきたのだということがはっきりと見えてくる。
遠く離れたスカンジナビア半島で育まれた、北方ヨーロッパの香りに懐かしさを覚えるのはなぜだろう。ユーラシア大陸を挟んで日本と対称に位置するアイルランドの民族的音楽に親しみを感じるのはなぜだろう。初めて見るはずなのに、なぜか懐かしい。気障な言い方をすれば、それらはぼくにとって「既知」を抱き込む「未知」なのだ。
三遊亭歌奴の「やまのあなあな」でもなじみ深い、上田敏訳で有名な、カール・ブッセ作「山のあなた」という詩がある。
山の彼方(あなた)の空遠く
「幸」住むと人のいふ。
噫(ああ)、われひとゝ尋(と)めゆきて、
涙さしぐみ、かへりきぬ。
山のあなたになほ遠く
「幸」住むと人のいふ。
直訳すれば、山の彼方には幸があり希望がある。しかしそこに幸福を求めても、結局は涙ながらに帰ってくる。幸せは実は近く足もとにあったのだという詩だが、ぼくはここに「未知」の「既知」を読み取るという誤読をあえてしたいと思う。あるいは「既知」の中にひそむ「未知」と言い替えてもよい。
故郷の山梨は四方を山々に囲まれる典型的な山国だ。太宰治は一時期暮らした甲府の町を「シルクハットを逆さにしたような」とモダンが香りたつ文学的表現をしたが、盆地を囲む稜線はもっと多様で荒々しい。西には切り立った鋭いシルエットが連なる南アルプス連峰や八ヶ岳。南から東に向かっては遠景に富士山を頂く御坂山地や大菩薩嶺の伸びやかな稜線。北には秩父まで折り重なる茅ヶ岳や金峰山の重厚な山並みが鎮座する。物心ついたときから、こうした多彩な表情を見せる稜線のシルエットが記憶のスクリーンには焼き付いている。
たとえ山が見えない土地で生まれ育ったとしても、そこにはひとり一人の山があるはずだ。暮らす人の「山の彼方」は等しく存在するはずだ。そう考えて、やっとぼくは気づかされる。ここにはぼくだけの山がある。その山の彼方(あなた)の空遠くには、探し求める「未知」の「既知」、そして「既知」の「未知」というデザインの原風景が広がっている。