2010.3.02

小さい時分の通信簿やら表彰状、絵や作文などは誰でも少しばかりは側に取り置いているのではないだろうか。ぼくの場合はずいぶん前に几帳面にヒモで束ねられて母から渡されていたのだけど、長いこと棚の奥に放ったままにされていた。先日思い立って解いてみると、黄ばんだ紙束は封印を解かれたとたんざわめきたち、懐かしさと気恥ずかしさが同時にぼくの中にこみあげてきて、思わず一枚づつ見入ってしまった。
ふと、その中に挟まれていた10センチ四方ほどの小さな水彩画を発見する。裏を見ると懐かしい筆跡で、「題名『少女』三枝茂雄」とある。この人物はぼくの高校時代の美術教師で、国画会に所属する画家だった。ぼくがまだ中学生だった頃、両親とは若い頃から表現活動を通じて親交を深めていた先生がわが家を訪れたことがあった。絵が好きな子だとでも紹介されのだろうか、ぼくの顔を見るなり「絵を勉強したいんだったらぼくの教えている高校に来なさい」と話しかけられた。そんなことがあってぼくは先生が顧問をしていた高校の美術部で、入学後の3年間にわたってほぼ毎日顔をつき合わせながら指導を受ける日々を送ることになった。
先生は芸大で日本画を専攻したので日本画家と呼ばれることが多かったが、日本画や油彩、水墨着彩画などをミックスした独特の画風を確立し、中国故事や漢詩を多く題材とした類例のない素晴らしい作品群を生み出した。また、深い造詣を示した漢詩や書も絵画作品とともに高い評価を受けていた。「今度生まれ変わったら、俺は中国の古典文学や書をもっと本格的にやりたいんだ」と熱っぽく語っていたことを思い出す。その遺志を継がれたかのように、ご子息の三枝茂人さんは現在、名古屋外国語大学の准教授として中国語学科で教鞭をとられている。三枝先生にまつわる思い出は尽きないのだが、こういう人物こそが芸術家と呼ぶにふさわしいほんとうの芸術家というのだろう、とぼくはずっと思っている。リブロポートから出版された菊地信義さんの「装幀の本」をたまたま眺めていた時、掲載されていた吉村貞治さんの「歴史のなかの巨人たち」の書籍カバーに先生の作品が使われていたのを見つけてとてもうれしくなってしまったこともあった。そして1994年に山梨県立美術館で遺作展「三枝茂雄展」が開催された際、同級生だった中沢新一さんがぼくが装幀を担当した図録に「ピューリファイ(浄化)」という文章を寄稿してくれた。「この高校へ来てよかった、と思った。私はそのとき、三枝先生の中に、真実の大人というものを発見できたからである。」中沢さんは、あきらかに他の教師たちとは著しく異なっていたこの三枝先生の中に、早くから「浄化された芸術」を見いだしていたのだ。こうしてぼくの人生にも、少なからず影響を与えることとなったこの人物のことは、あらためていつかゆっくり回想してみたい。
発見した水彩画に話しを戻そう。なぜこの絵がここに残されていたのかは定かではないが、左上隅に1954と記されているのでぼくが4歳の頃描かれたことになる。これはまったくの想像にすぎないのだけれど、この絵のモデルは9歳年長のぼくの姉なのではないかとその時思った。この年13歳だから年格好も符合する。なんらかの契機があってモデルとなり、先生から両親に手渡されたものなのではないだろうか。身を削るようにしていろんなものと格闘しながら制作し続け、抉られた痕跡のような鋭く厳しい筆線が持ち味の画家が実は少女好きであったことはあまり知られていない。生前多くの少女像を残しているが、この絵の柔和な筆使いからも、しばし羽根を休める鳥のような穏やかな作者の心情を感じとることができる。
ところで、紙束の中にはぼくの絵もたくさん残っていた。しかしどれを見ても呆れてしまうほどヘタクソで気が滅入ってしまった。上手い下手以前に、これを描きたいのだという意志というものがまったく感じられない。これで絵が好きだったなんて恥ずかしい、見なけりゃよかったと後悔した。ただ1枚だけ、これは似ていると感じた母の絵があった。小学校2年生の時に描いた「おかあさんのかお」と題された絵だ。もちろんヘタクソに変わりはないのだけれど、ここには当時の母の雰囲気がとてもよくあらわれている。例外的に描きたいものを思い定めて筆を取った、そんな感じが伝わってくる絵になっていると思う。
子供の頃の母の記憶といえば、和服に割烹着で和裁をする姿が焼き付いている。家計の足しにとはじめたのだろう、チャコや指ぬきを駆使して四六時中縫い物ばかりしていた。ぼくの知る母は、新聞記者として不規則きわまりないサラリーマン生活を送っていた父を支える専業主婦となってからの母なのだが、結婚前は国鉄に勤め、当時ではまだめずらしいと言われたキャリアウーマンで、県内で初めて個人向け国債を購入した女性ということで新聞に載ったこともあったそうだ。また、文学少女でもあった母は若いころから詩作に夢中になり、ある文学サークルで父と出会ったのだと聞いている。戦前戦中は父の赴任にともなって満州、青島と移り住み、その地で生をえた姉と兄を育てながらもノートを手離すことはなかったという。以降終生、詩作を寄す処とし、地元新聞の詩の選者を務めたり、30号で2003年に休刊するまで「交響」というささやかな同人誌も主宰していた。表紙にはいつも三枝先生の描いた鳳凰の絵が配され、出来上がるたびにぼくと妻の名の入った新刊2冊を律義に届け続けてくれた。詩集も過去4冊を自費出版するなど、その制作意欲が衰えることはなかったが、息子のぼくは決して熱心な母の読者とはいえなかった。詩集も装幀まではしたものの、肝心の詩となるとページを開く手がなぜかとたんに重くなる。母とぼくは性格が似ていると言われることもあるせいか、歳をとってからも会うといつも口喧嘩ばかりしていたような気がする。生来の傷付きやすさをガードするかように形成されてきた狷介さが、時として容易に受け入れ難い弱さと映っていたのかもしれない。包み込むような豊満な母性を感じさせる人ではなかったが、それでも母なりのやり方でぼくらに愛情を注ぎ、育ててくれた。この絵に寄り添うように作文が残っていた。面映ゆいが全文掲載してみたい。

ぼくの母

5年1組 小林春生

ぼくの母は手がごわごわしていて、ゆびがふとい。よく見るとたくさんのくろうが、その手にしみこんでいるようだ。ぼくのべんきょうも、ぼくいじょう、ねっ心だ。
しかしぼくとしても母にたいしていけんがある。たとえば夜暗い所で本をよんでいるので、めがねをかけている母がよけい目が悪くなってはこまるので、明るいたまにかえてやろうとしたら「すぐよんでしまうから、でんきなんかつけなくてもいい」といった。ぼくは、くやしかった。そういう時は、きもちよく「それじゃあ、たのむわ」といってくれれば、ぼくも気もちがいいのにと思った。
時々は二人でえいがを見にいく。むずかしい所は母がかいせつをしてくれる。「刑事」というイタリアえいがを見た時は、母はすっかり感げきして二日ばかりはすてきだった場面や、あんなことばがよかったなどとそればかり話していたが、それからまもなくそのえいがの歌がラジオやテレビではやってきたので母はすっかりおぼえてしまった。兄のウクレレを時々だして楽しそうにひいている。おとくいの曲は「きよしこの夜」や「スワニー河」などだ。母のばんそうで僕が歌う。
この間は、桑原先生(当時ぼくはこの桑原福保先生の主宰する画塾に通っていた)の絵の展らん会を見につれていってくれた。フランスの町や、寺の風景やスペインのけしきばかりだった。そのうち父がきたのでいっしょにみて回り、イスにこしかけて休みながら好きな絵はどれかなどと話しをした。緑の森を馬が三頭、だれか乗ってゆっくり走っているきもちよい絵があった。母は「ブロンニューの森」というその絵が好きだといった。僕も森の緑の色がいいと思ったので、好きな絵が母といっしょだったからうれしかった。「もし子供のためにかざるのならあの絵がいいですね」と母は小さい声で父にいっていた。

昔は分からなかったことがある。今となって少しだけ分かることもある。そしてやはり永遠に分からないことだってある。
重度認知症という濃い霧に包まれて、小枝のようにひっそりと横たわる母は今日、93回目の誕生日を迎えた。