Above_Vermeer
Christ in the House
of Martha and Mary 1655
Below_Vermeer
Diana and Her Nymphs
1655-1656

2009.1.01

ぼくらは自身がつくりだすさまざまな幻想に囲まれて日々暮らしている。もちろん取り囲んでいるものが実は幻想なんだと考えはじめたら、足下から崩れ落ちてしまうような不安に襲われ、生きている実感はとたんに危ういものになってしまう。しかし時折、強固だった現実感がぐらりと揺らぎ、ほんとうは幻想の中に漂っていたのではないかと考えさせられるような体験をすることがある。
半月ほど前、上野の美術館フェルメール(Vermeer)の現存する全作品36点中、6点をまとめて鑑賞してきた。生まれて初めて対面する生(ナマ)フェルメール。それはこれまでぼくの中に記憶されていた「フェルメールのようなもの」とはまったくの別物だった。
書籍や映像を通じて記憶されているイメージは陽炎のようなものにすぎない。実物は迫力があるとか、圧倒的な実在感だったとか、そういうことではなく、ただ記憶されていたものとは全然別なものだったというシンプルな事実。こんな当たり前なことをあらためて突きつけられると、自分の脳内や心の中にストックされているものは、現存する人間の数と同じく存在する幻想のひとつに過ぎないのではないだろうかという気持ちになってしまう。
フェルメールは小品が多く、その精緻さには誰もが目を奪われるそうだ。しかしぼくにとって印象的だったのはその色あいの美しさであった。とりわけ、上に掲載した大ぶりな作品2点に見られる圧倒的な美しさ!‘天空の破片とも呼ばれた’高価なラピスラズリを原料とする青い絵の具を惜しげもなく使ったために困窮を極めてしまう逸話が、フェルメールの生涯を題材にした映画「真珠の耳飾りの少女」にも紹介されていたが、その美しい色彩に誘われるように、混雑する会場の出口近くで思い直し、人波をかきわけて見直すために再び展示コーナーに戻ってしまったほどだった。光や質感の表現、コントラストと色彩の絶妙な調和など、同時展示されていた他のデルフト・スタイルの画家たちの作品群とは明らかに次元を異にする完成度で、溢れんばかりの才能がキャンバス上に凝着していた。
絵画を完成させるということはほんとうに難しい。描き足りなくても駄目、描き過ぎても駄目、ここしかないという瞬間で静止させてやっと絵画は完成するが、そんな画家の苦心をよそに、当時の絵画作品はインテリアの一部として認識されていたから、壁の色に合わせて勝手に描き変えられたりすることもめずらしくなかったようだ。下の作品「ディアナとニンフたち」も背景が青空に描き変えられたりしていたそうだ。1990年代末に修復され、作画当時の状態に戻されたというから、厳密に言えば原画に限りなく近づけた修復品ということになる。しかし、ヨーロッパの修復技術は深い伝統に支えられ高度な水準を誇っているので、これがほぼ原画であると考えてよいのだろう。
帰り道、銀杏の下の黄色い絨毯を踏みしめながら、ぼくは昔愛読した美術書籍を思い出していた。「絵画教室(traité de la peinture)」と邦題のつけられたその書籍の著者は1898年生まれのフランス人、アルマン・ドゥルーアン(Armand Drouant)。画家、美術評論家、画商、鑑定家、航空将校など多彩な顔をもつ人物である。「絵画は、永遠の《肯定であって、否定》なのだ。…すなわち、いつもふたつの考えをもっていなくてはならない、ひとつをぶちこわすための、もうひとつをという!」なんて含蓄ある警句が全編にちりばめられていて、目次には「美術は神秘なものか」「特質の検討」「画家の材料」「実際的助言」といったコンテンツが並ぶ。特に印象深かったのが「画家の材料」。ここには絵の具を構成する化学的組織や耐光度、耐老化度一覧や使用に際しての実践的な助言も含まれる。つまり若い画学生はここで絵画とは感覚の赴くままに描くものでなく、目指す表現を確実に具現化するため、化学者の目もあわせもたなければならないことを知るのだ。当時ぼくが学んでいた絵画研究所では、キャンバス下地作りの入念な取り組みから始まり、‘物質としてのタブロー(tableau)’との向き合い方を徹底的に叩き込まれた。余談になるが、日本でも人気の高いロシア生まれのアメリカ抽象画家、マーク・ロスコ(Mark Rothko)の謎の自殺の原因は、晩年に手がけた壁画の退色だったのではないかとも囁かれている。画家にとって色彩を操ることは、その命をも左右するほどに重要な命題であるのかもしれない。
もうひとつ印象に残ったことは、フェルメールの作品に付けられた額がどれも素晴らしかったことだ。額と一体化した物質としてのタブローは、高貴な存在感を静かに主張していた。ヨーロッパにはアンティークの額を収集・修復する専門業者がいて、持ち込まれた絵画にふさわしい額を見立て、より完成された美術品として再生することもできるそうだが、「絵画教室」からもそんなヨーロッパの、深々とした絵画や美術品に対する知識や技術力の奥深さが伝わってくる。
その分厚いヨーロッパ美術の中核を担ってきたオランダで生まれたフェルメールという画家は、気の遠くなるような豊潤さを実現する「ビロードの手袋のなかの鉄の手」を持っていたのかもしれない。フェルメールの二作だけの物語画(神話や歴史を題材に描いた作品)といわれる、上の「マルタとマリアの家のキリスト」と「ディアナとニンフたち」。そこに描かれている赤と青、そして黄色の色面を見つめていると、色彩が人に幸福感をもたらすという不思議が、実に350年以上にわたってここには持続されてきたのだと実感することができる。運良くその不思議を享受できたぼくは、この個人的な体験を、幸福感に裏打ちされた完成度の高い、ま新しい幻想として記憶していくことになるだろう。