上から企画展フライヤー類。
下の2点は美術館全景とファサード風景。

2018.7.01

「1543年にポルトガル人が種子島を訪れてから、日本はヨーロッパ人からさまざまなことを学んだ。鉄砲、地球儀、メガネ、カボチャ、スイカ、トウモロコシやタバコなどの伝来である。しかし日本人はヨーロッパ人のことを『南蛮人』と呼んでいた。『南蛮人』とは南から来た野蛮人という意味である。

ヨーロッパも同様で、古代ギリシャではギリシャ語を話さない民族を『barbar』と呼んでいた。これは野蛮人という意味である。ローマ時代にはローマ人以外の民族はもとよりキリスト教徒ではない民族も『barbar』と呼んでいた。これは、どこでも同じで、自分の属する民族の考え方や文化が正当で優秀であり、他民族は野蛮で劣等であるという偏見を持った考え方である。植民地時代に起きた、先住民族への殺戮、虐待や搾取といった、人間性を無視した蛮行はこの考え方によるものである。

1904年にパリのトロカデロ民族誌博物館を訪れたピカソは、そこにあった、アフリカやオセアニアの美術を見て愕然とした。そこには、疑いもしなかったヨーロッパ的な美意識とはまったく異なった考え方の美術が存在していたからである。これをきっかけにピカソが新しい美術運動であるキュビズムを始めたことはよく知られている。

日本では、ヨーロッパや中国以外の歴史や文化を学ぶ機会がほとんどない。しかし、実際には、民族の数と同じだけ異なった考え方や文化が存在するのである。また、必ずしも、科学先進国や文明国の美術の方が勝っているという確証はないのである。

アフリカはもとより、アジア、オセアニア、インドネシア、フィリピン、ヒマラヤ、そして日本にも先住民族が住んでいて独特の考え方と文化を持っている。それらの美術は、ときには強く、恐ろしく、そして美しく私たちに語りかけてくる。『グローバル化』という言葉が叫ばれて久しいが、本当のグローバル化とはさまざまな民族の文化や美術を知ることではないだろうか。(AFRICAN ART MUSEUM図録『AMAZING SPIRITUAL ART』前書きより)」

人間は自分とは違うと認識すると排他的行動をとってしまうのに、同時にその差異に衝撃を受けたり、魅惑されたりもするアンビバレンス(両義的)な生き物だ。その揺れ幅は、相違が大きいほど顕著になってくるが、厳密に言えば自他の揺れ幅がまったく同じ人間なんて存在しないわけで、それぞれが微妙に異なる振幅をもって生きている。

ところで、ぼくには大きな揺れ幅を実感できる場所がある。甲斐駒ヶ岳の絶景が見渡せる山梨県北杜市長坂町の山中に立つ美術館「AFRICAN ART MUSEUM」だ。冒頭で、世界各地の先住民族の文化や美術について図録に書き記した、館長である伊藤満さんが長年収蔵してきたコレクションを公開しようと思い立たなければ、文化的対岸に暮らすぼくが、人類発祥の地ともいわれるアフリカ大陸に伝わる造形物と向き合うこともなかっただろう。

アフリカのマスクを中心に紹介された企画展の開催中、知人に誘われてAFRICAN ART MUSEUMを初めて訪れたときの驚きは忘れられない。ピカソも衝撃をうけたというその造形は、まったくぼくとは異なるルーツから生み出されていることだけははっきりと分かった。しかし不思議なことに、見たこともないはずなのに、それはどこか懐かしさを感じさせるスピリチュアルな創造物だった。また、日本髪や相撲の化粧回しを連想させる造作もあって、昔の日本人はこれらからインスピレーションを得たのではないかと思わせる(そんなことはもちろんあり得ないのだが)立像もあった。ただ、ぼくは願い事や夢が抽象化された実に印象的なそれらの造形が「barbar=野蛮人」によって作られたものとは思わなかったし、直感的にこれは美術品として受け止めるべきものではないとも感じた。

展示されていたマスク類の多くは儀礼のための道具としての造形物である。仮面に関してはすでに6,000年前には現在のものと変わらない造形が存在しているようで、その起源は想像以上に古い。また、マスクの制作に携わる家系は限られおり、形や技巧の伝承も、限られた家系内で限定的に伝えられてきたようである。1945年以降制作されていないこうした造形物を現在入手するためには、サザビーなどのオークションで落札するか(しかし、その落札額は驚くほど高額となっている)個人コレクターから譲り受けるしか方法はないのだという。

アフリカの造形物を大別すると、マスク、立像、道具、装身具、武具、楽器、それにテキスタイルで、その用途も儀礼用、芸能用、祈祷用、墓標や装身具と多岐にわたっている。印象的なのは、造形物がそれぞれ民族特有のスタイルを有し、またバラエティに富んでいて独自性も豊かであること、そして何よりものびやかさを感じさせることである。普段馴染んでいる世界とまったく異なる、こうしたさまざまな文明や美意識の存在を目の当たりにすると「古今東西、人間の作ってきた造形物は実に多彩で奥深く、世界は本当に豊かなんだ」と実感し、さまざまな異なる種類の花々で埋め尽くされる人類の多様性の大樹を思い浮かべてしまうのである。

それからというもの、美術館は12月から3月までは冬季休館となるが、新春から晩秋までときおり気が向くとぼくは長坂を目指し、異文化の定期鑑賞を楽しんでいる。あるとき、受付に座っていた館長の奧さんが、開館にまつわるこんな話をしてくれた。伊藤さんは友人を訪ねた帰り道に偶然、甲斐駒ヶ岳の絶景が見渡せるこの八ヶ岳南麓を通りかかり、ほとんど瞬間的にここに私設美術館を建てようと決心してしまった。この出来事は家族にとって、まさに青天の霹靂だったという。しかし、こうした衝動的行動は案外珍しくないのかもしれない。この八ヶ岳南麓にあるレストランやカフェの経営者らから、ぼくは似たような話を何度か聞いたことがあった。土地の持つ磁場によって瞬時に人生が定まってしまうということがあるのだろう。真っ新な状態で、これからの人生をここで過ごすと決める瞬間には「ここからはじめる」という清々しさがあるが、これはなにも現代人に限ったことではないのかもしれない。おなじ南麓に位置する富士見の井戸尻考古館を訪れて、この地に集落を構えた縄文の人々に想いを馳せたことがあったが、遠景に雄大な山々を望み、こんな日当たりの良いなだらかな丘陵地なら、縄文人ならずともきっと住みたくなるに違いないだろうなとその時思った。世界にはノマド(nomad=遊牧民)もいるが、大半は定住者である。生まれ育った土地、出会った伴侶と暮らす土地、仕事で定まることになった居住地と、定住する地もさまざまだが、誰しも「ここからはじめる」と決心する瞬間はあったはずだ。しかしその清々しさは、日常の流れに押し流され、気がつくと何となく成り行きでここで暮らしていたという思い込みに覆い隠されてしまっているのではないだろうか。

それから何度か通っているうちに、名古屋生まれの伊藤さんが実は以前ぼくと同業者であったことが判明した。美大を卒業後、資生堂のデザイン室に就職をした伊藤さんは、そこで定年までグラフィックデザイナーとして勤務していたことを知る。共通の知人デザイナーも数人いたので、展覧会を鑑賞した後に、ついデザインの話などで長居してしまうことも度々あった。しかしぼくの知る限り、デザイン活動と並行してこのようなコレクターとなり、美術館まで建ててしまったデザイナーは伊藤さんを除いて他に知らない。

「AFRICAN ART MUSEUM」の収蔵品はアフリカのマスク、立像、楽器、テキスタイル、道具、武具など1,800点と、アジア、オセアニア、インドネシア、フィリピン、台湾、ヒマラヤなどの美術品700点のおよそ2,500点。しかしそれ以外に、伊藤さんは多くを語らないのだが、実は長年刀剣鍔の収集もしているらしい。ただ、こちらは主に業者間との取り引きをメインとしているため公開されていないので詳細は謎のままである。また、伊藤さんにはこんな一面もある。お菓子の「花林糖(かりんとう)」に一家言を持っていて、本当の花林糖とは二度揚げされていなくてはならないと主張している。日本で一番美味しいと推奨する東京(詳細は忘れてしまった)の花林糖は残念ながら今ここには置いてないのだが、「今日は私が二番目に美味しいと認定している長野の花林糖があるのでどうぞ仕上がれ」とお茶を添えて振る舞っていただいたことがある。食後感想はというと、残念ながらぼくにはその二度揚げの微妙な味覚の違いを判別することはできなかったが、もちろんとても美味しい花林糖だった。それからというもの、花林糖を食べるたびにアフリカの仮面や立像を思い出す。異国の古の造形、土地の磁場に引き寄せられたコレクター、そして花林糖がぼくの中で分かち難い記憶の鎖の輪となっているからである。