上は野生展・展示風景:
ステファニー・クエール
『Old Boar and Orangutan』
(写真:淺川敏)
下3点は
銀座メゾンエルメスの
ウィンドーディスプレイ展示風景

2018.5.01

アートってなんだろう。今では、いわゆる「芸術」の略式表記として用いられているが、元来は単に「人工のもの」という意味の「技術」に含まれるひとつの概念だったようだ。英語のアート、フランス語のアール、ドイツ語のクンストなどと呼ばれた「芸術」は、近代以降「技術」から分化して、「良い技術」「美しい技術」として「アート」という呼称を引き継ぐことになった。我が国では、明治時代からリベラル・アーツの訳語の由来をもつ日本語の「芸術」は、正式表記では「藝術」となっていた。それが「芸」と略記されることになったのは第二次大戦後のことで、技芸・技能一般、特に文芸を表す「芸」の「術」ということになる。

人類は「芸術」がなくても生存はできるだろうが、人間らしく存在できるのか?と問われれば、はてなと考えこんでしまう。人類以外の動物は(おそらく)「芸術」など必要としていない。しかし、人間が動物との間に通路を拓こうとする時には、「芸術」は大切な1本の通路となる。ぼくは若い頃アートを志したことがあったが、いまだに疑問符ばかりで、「アートってなんだろう」と思い巡らせる日々が続いている。

「藝」と「芸」には微妙な落差がある。略記されて権威色は薄くなり、市民権を得たアートはより身近に感じられるようになった分、アートという表現がなんとなくペラっとしたフラットな印象を与えているような気がしてならない。「アートで過疎地を活性化」とか「アートで元気になる」などというスローガンを聞くと、「何だかなぁ」という気持ちになってしまう。地域芸術祭企画の第一人者といわれる北川フラムさんは、地域づくりと芸術をつなぐ取り組みを1990年代から続けている。「フラム」は本名でありノルウェー語で「前進」を意味するそうだが、なかなか「芸」の分野では出色の野心家である。少し脇道に逸れるが、デザイン分野でも似たようなタイプの人物がいる。ロングライフデザイン活動家のナガオカケンメイさんだ。彼は「日本デザインセンター」入社後、デザイナーの原研哉さんと共に「原デザイン研究所」設立に参加。その後独立し、2000年にD&DEPARTMENT PROJECT」を立ち上げて、現在は各地に直営店やパートナーショップを展開している。「D&DEPARTMENT」は、その土地の作り手と生活者を結びつけ、その土地「らしさ」について学び、対話する場を提供するショップと位置づけられている。

北川フラムさんやナガオカケンメイさんに共通しているのは、自身の能力を表現者からプロデューサーへとシフトすることで評価を獲得したことだろう。これも得難い能力であり決して否定するものではないが、意地悪い言い方になってしまうけど、どうしても他人のふんどしで相撲を取っている感が否めない。多くの作り手は物作りは得意だが、売り方はよく分からない。そんな不器用な葛藤や宿命を抱える作り手に代わって、ぼくらがアピールいたしましょうとプロデューサーは作品を評価し、ピックアップする。多くの人々に必要とされるものでマーケットは成り立っているのだが、物作りに伴う逡巡や痛み(それも含めて丸ごと芸である、という言い方もあるのだが)は不要なものとして切り捨てられ、プロデューサーに評価された作品だけが商品となっていく。作家もアピールしてもらえるんだからと、ちょっと卑屈になってはいないだろうか。でも、プロデュースするってそういうことでしょう?って言われたら、たしかにそうなんだけど…。

話をアートに戻そう。かつてのバブル前夜、西武百貨店やセゾングループを率いた堤清二さんは80年代文化の担い手として果敢にアートを事業に結びつける活動を展開していた。軽井沢のセゾン現代美術館は西武グループの創業者堤康次郎が収集した美術品に、セゾングループによって現代美術コレクションが加えられていることで知られている。昨年、数十年ぶりに訪れてみたが、80年代の活気との落差に驚いた。まさに「つわものどもが夢の跡」。それに「現代美術」が、かつての輝きをすっかり失ってしまっていることに言い知れぬ淋しさも感じてしまった。ジャスパージョーンズラウシェンバーグアンセルム・キーファーもたしかに其処に在るのだが、まるで20世紀美術の残像のように佇んでいた。30〜40年も昔の表現をいまだに「現代」と呼ぶのも無理がある。しかし「ちょっと前の現代美術」とか「かなり昔の現代美術」というわけにもいかないから、近年は「コンテンポラリー・アート」なんて言い方で括られることも多い。

そんなこんなで21世紀になってからは、アートに対する関心はすっかり薄くなり、ぼくは展覧会に足を運ぶ事もめっきり少なくなってしまった。昔のTV CMでこんなのがあった。虫にきびしく、人にやさしい水性キンチョールCMで、神社の境内に腰掛けた父親(大滝秀司)が商品を片手に「キンチョールはどうして水性にしたんだ?」とつぶやくと隣りに座る息子(岸部一徳)が「それは地球のことを考えて空気を汚さないように…」と喋り出すとそれを遮るように父親が「つまらん!お前の話はつまらん!」と返すCMだ。相応しい例えとは言えないかもしれないが、ぼくがアートに興味を失った気持ちもそれに近いかもしれない。表現ごっこしているように感じられたり、あるいは露骨に戦略的だったり、他人の幻想をこれでもかと見せつけられるのはもううんざり!そんな気持ちになっていた。とはいえ美術に興味を失ったわけではなかったから、現代美術以外の絵画や日本画は時折鑑賞していた。そんなある日、中沢新一さんから案内状が届く。彼がディレクターとなって企画した21_21 DESIGN SIGHT 企画展「野生展 (Wild:Untamed Mind):飼いならされない感覚と思考」だ。以下はディレクターズ・メッセージ。

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人間みんなが同じ世界に生き、同じような体験をして、夜見る夢も同じようになっていく現代に、まだ管理され尽くしていない、まだ飼いならされていない心の領域が、どこかに生き残っている。私たちはそれを「野生の領域」と呼ぶことにした。

この「野生の領域」に触れることができなければ、どんな分野でも新しい発見や創造は不可能だ。

どうやったら、私たちは心の中の「野生の領域」に触れることができるか、どうしたらそこへの通路を開くことができるか。生活と仕事の中でこの「野生の領域」への通路を開く鍵を発見することが、「野生展」のテーマである。 中沢新一

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そこでぼくは、会期末近い今年1月末、六本木ミッドタウンにある会場に足をはこんだ。会場の導入部には(ぼくらには)お馴染みの丸石が鎮座していて紹介パネルが掲示されていた。次のコーナーに進むと、人間の文化と生活の心の土台となる思想を残したと中沢さんが敬愛する、明治時代の日本が生んだ大博物学者、南方熊楠(みなかたくまぐす)の粘菌学、神話学や民俗学に関する足跡を辿る資料展示空間が広がっていて、これは濃密な素晴らしい企画展示だった。やがて参加作家らによる作品展示空間に移動する。参加作家は、青木美歌、井上嗣也、aircord、大森克己、エルンスト・ガンペール、ステファニー・クエール、黒田征太郎、しりあがり寿、鈴木康広、田島征三、立花文穂、遠山孝之、西村裕介、渡邊拓也の面々。美術家、写真家、イラストレーター、デザイナーとジャンルもさまざま。会場に入るとひとつの作品の前でぼくの足が止まり、視線は釘付けとなった。そこには、歳をとったイノシシとオランウータン(Old Boar and Orangutan)の荒々しいタッチで焼き上げられた塑像が2体。作家はステファニー・クエール(Stephanie Quayle)。藁束の横に置かれた切り株に座り込むオランウータンと猫足台座に置かれた古びたマットに座るイノシシの何という一体感。人間の意識が動物の体内に潜り込み、そこから再び生命力とともに吹き出し、凝結したような造形はチャーミングですらある。これこそ野生!

ステファニー・クエール(Stephanie Quayle)は1982年生まれの英国女性彫刻家。英国出身といっても生地はマン島である。マン島はグレートブリテン島とアイルランド島の間にあるアイリッシュ海に浮かぶ小さな島だ。両親はこの島の田園地帯で農場を経営しており、彼女は雄大な自然や多くの動物に囲まれて育ったことが自分の作風に大きな影響を与えているとインタビューで語っている。現在もこの農場にスタジオを構え、やはり彫刻家であるパートナーのダレンの協力を得て創作活動を続けているが、彼女の作り出す動物の彫刻作品は粘土を素材とした造形で、最終的には窯で焼き上げられるセラミックアート作品と位置付けられている。

ステファニーの制作はまずドローイングからはじまる。そして多くのドローイングを経て彫刻に至るまでのプロセスこんな風に語っている。

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描きながら動物たちのなかに深く入り込んで、彼らのことを理解しようとしています。ですので、観察すればするほど、ドローイングを繰り返せば繰り返すほど、実際に粘土で作品を作るときに、より素早く作品へ動物たちの生命感を取り込むことができるのです。

制作するとき、使用する粘土の性質に無理をさせずに生かせるよう、動物と粘土のバランスをよく考えます。もし違ったタイプの粘土を使う場合、見た目や雰囲気が変わってきますから、スムーズなものを選ぶか、目の粗いタイプにするかの決断はとても重要です。ドローイングのときも同じですが、出来る限り自由にのびやかに制作作業をしようと心がけています。作品が、創造時のエネルギーを灯し続けていてほしいので、手を加えすぎて動物の魂が抜け、単なる描写彫刻になってしまう前に、作業の手を止めるようにしています。(『ANIMAL by Stephanie Quayle』出版:aty inc. 発行所:LimArt より)

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数え切れないほどのドローイングやスケッチを重ね、その記憶がまだ瑞々しさを保っているうちに一気に塑像していく。指の痕跡を留めた荒削りなタッチはそのまま残し、決してディティール再現はしない。こうして造形化された動物の天性には生命力が湛えられ、繊細な心さえ宿しているかのようだ。ステファニーは粘土という素材に特別の思いを抱いているという。大地から得られる粘土は、瞬間的な判断を感覚的に受け入れてくれる。そのあと窯の炎で魔法のように堅く焼き締められる。以下の言葉から、この古代から残る工程に強い魅力を感じている彼女の想いが伝わってくる。

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大地からダイレクトに得られる粘土には、オブジェに動物としての何かを灯せるのかもしれません。人類誕生と同じくらい古くから、人間は粘土で物を作ってきました。大地から得た泥をそのままの存在として扱うという、とても根源的なこと…。私は今まで人間が行ってきたことをそのまま続けているだけなのです。(中略)粘土で作品を制作することは、もの作りの歴史全体に触れる神秘的な作業だと思います。制作する作品がどのようなものであれ、人類の長い歴史のなかで粘土で作品を作ってきた過去の人々が関わってくるのです。3万2千年が経った今でも、自分は当時の人々と全く同じことをしているーそう考えるたびに、私は嬉しくなります。

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世界各地で発表活動を展開しているステファニー・クエールの作品はファッションとも親和性が高いのか、コムデギャルソンの川久保玲がトータルプロデュースするドーバー ストリート マーケット ギンザには彼女の白い像が展示されていたし、2016年から2017年にかけては「銀座メゾンエルメス(HERMÈS)」のウィンドーにも彼女の作品群が展示された。都会のまっただ中に荒ぶる混沌を据え、完成を見る者の意識にゆだねようとした。銀座メゾンエルメスのサイトにある「URBAN JUNGLE」ページには、ステファニーのインタビュー動画がアップされているのでぜひご覧いただきたい。そこから流れてくる彼女の肉声コメントを聞いていたら、ぼくも嬉しくなってきた。人生を豊かにしてくれるアートの灯は消えてなかったのだ。