bosco2018 new years card

デザインを回想する

Graphic Design
2018.1.01

ぼくがデザインを始めたのは1974年。しかし実は71年から洋服店のショウウインドウ・ディスプレイなどデザインの真似事らしきことをしていた3年間があった。甲府駅前のビルの階段下にある極小空間を借り受け、リフォームを親戚の大工さんに頼んで赤・青・黄三原色の怪しげなオフィスを立ち上げた。そこでデザインオフィス(のようなもの)と手作りアンティークショップ(のようなもの)を並行させながら、まったく地に足はついてなかったが、今思い返せばかなり慌ただしい日々を送っていた。オフィスにはいろんな人が出入りを繰り返し、その頃がぼくの人生でもっとも喧噪に満ちた時期だったと思う。ただ2人分の机も並べられないほど狭い2坪ほどの空間では、次第にデザイン作業もままならなくなってきたので、ひとまず実家に戻り、応接間を占領して仕事場としたのが74年のことだった。事務所の電話番号下4桁を年号と同じ1974としたから創業年はよく覚えている。(ちなみに局番は51だから51-1974。「こい いくなよ で、仕事よ来い!出て行くなよ!」という語呂合わせ!)移転を考えていたときは、せっかく起業するのだからもっと見栄えのよい、どこか別の広い事務所を借りようかとも考えていたが、のちにメインクライアントとなる地元では知らない人はいないと言われるほど大成長した企業の社長が「無名の者に世間の人は1円だって恵んではくれない。余計な経費はかけないでもっと力がつくまでは自宅で充分」とアドバイスされ、実家の間借り起業を選択したのが20代半ばにさしかかる頃だった。
不遜もはなはだしいと叱られるかもしれないが、ぼくはどうしてもなりたいとデザイナーを目指したわけではないし、デザイナーという職業に憧れたこともなかった。そればかりか、やってることはデザイン以外の何ものでないのに、いまだに「気がついたらデザインをやっていた」とか「一応、デザイナーをしています」なんて言っている。
思い返せば、当時のぼくは間違いなくニート予備軍で、学歴はないし、教職免許も持っていない。それに会社勤めで人間関係を上手く築くなんてことはとても無理だと思っていた。実家に身を寄せるスネかじりの身のぼくに、実はデザイン以外にできることなど何もなかったのだ。そんな状況にもかかわらず、高校を出てからの2年間かなり濃密な美術修練の期間を経ていたので、ぼくは将来にさほど不安を抱くこともなく、根拠のない自信にあふれた生意気な若者だった。そして、「どんな人生になるのか分からないけど、好きなことをして暮らしたい」という人間として至極まっとうな、しかしとても困難を伴うに違いない漠然とした願いを抱いていたのだが、それは今ほど過酷な社会状況でなかった当時だからこそ許された楽天的希望だったと言えるだろう。ともあれ、ぼくのデザインの第一歩はこうして踏み出された。
ぼくが生業としたデザインはグラフィックデザインという分野で、主に印刷物を対象とするものだった。起業してから約20年後のパーソナルコンピューターの登場によって制作環境が一気にデジタル化されていくのだが、それまでのアナログ時代も印刷物が完成するまでの基本的制作プロセスはさほど変わらない。覚えなくてはならないことは山ほどあった。前述したようにぼくはデザインの専門教育を受けてないので、まったくの自己流で習得していくしかなかった。必然的に仕事が授業となり、現場が学校、各工程の職人さんらがぼくの教師となった。
当時はまだ写植という職種があって、ぼくらデザイナーは文字組を担ってくれる写植屋さんに依頼して印画紙に指定した文字を現像プリントしてもらい、それを版下という台紙に貼り付けてデザインを組み上げていく。写真はアタリと呼ばれるスケッチで指定しておく。こうして完成した版下の上に半透明のトレーシングペーパーを被せて色指定という作業に移行する。これはその名の通り色を指定していく作業。単色なら調色してインクを練り込んで作る特色という色選びをする。カラーの場合はCMYKという4原色を網点で掛け合わせて再現するので、仕上がりを想定して各色を%で指定していく。版下はモノクロだが、指定しているデザイナーの頭の中では視覚的にシミュレーションされたカラーが再現されているわけだから、今考えると相当高度なことをしていたことになる。それから次の工程で版下は製版屋さんに渡されて、そこで指定された情報に基づいてカラーごとに分色されたフィルムを作り、それをインクをのせる版に焼き付ける刷版という行程に移っていく。印刷屋さんこれら焼き付けられた版を印刷機に巻いて本刷りをする。最後に、刷り上がった印刷物は製本屋さんに渡されて、折ったり綴じたりの製本加工を経て印刷物は幾多の行程を経て完成する。このようにアナログ時代の印刷プロセスは、デザイナー、写植屋、製版屋、印刷屋、製本屋などが分業しながら一連の流れ作業で成り立っていた。したがって流れの源流に位置するデザイナーも1ユニットとしてそれなりの知識が必要とされていたから、ぼくは現場で場数を踏みながらそれらを習得していった。
ところが、90年代半ばに始まったデジタル化でこのプロセスが一気に統合されていくことになる。コンピュータで卓上出版するという意味のDTP(Desktop publishing)の到来は印刷業界に大きな変化をもたらすことになった。デザイナーは烏口を研いだりロットリングで細い線を引いて版下製作したり、ポスターカラーで彩色する必要もなくなった。また、写真植字はデジタルフォントに置き換わり、写植のプロセスも不要となった。さらに製版の一部はデザイナーがパソコンのアプリケーション上で分色指示することで統合され、また製版もフィルムが不要となって直接刷版するダイレクト刷版システムにより、一部が印刷に統合される現象も起きていった。計算上は、プロセスがシンプルになることによって制作時間と費用が縮小されることになるが、実質的には、デザイナーと印刷所の倍増した作業量は従来の料金に吸収され、写植と製版は消えていく業種となってしまった。また、デジタル変革はデザインのフォーマット化も生みだし、そこそこのデザインならわざわざ専門職に依頼しなくても、それなりの印刷物を仕上げることが可能となった。こうして世紀をまたぎ、大きく変わった印刷を取り巻く環境の中で、デザイナーは生き延びていく術を新たに模索しなければならなくなってきた。
ぼくは割合早い時期から製造メーカーのクライアントとの出会いがあったので、印刷物と並行してさまざまなパッケージのデザインもしていた。パッケージデザイナーはペーパーの印刷物ほど受注機会がないので地方都市では数えるほどしかいなかったと思う。パッケージは紙以外に各種フィルムや缶などの金属など広範囲な素材で再現するため、デザイン手法や工程、そして制約条件も複雑になり、覚えなくてはならないことが山積みされてくる。加えてデザイン業務はCIブームもあって、具体的な成果物を伴わない企業のシンボルマークやLogotype、略称CIのコーポレート・アイデンティティ(Corporate Identity)やCIを構成する要素で企業が伝えたいイメージを効果的に表現する作業の略称VIのビジュアル・アイデンティティ(Visual Idntity)とデザイン範囲はますます広がっていったので、アンテナはより高く、また広範囲に張り巡らさねばならない状況になってきた。
起業する25年ほど前にぼくが描いた計画図は、まず5年くらいは技術習得の期間に充て、主に印刷会社からデザイン作業を下請け受注して研鑽を積むというものだった。次の5年は収入の柱を一定額確保しながら、少しづつクライアントを開拓して印刷会社からの受注比率を抑えて、逆に発注比率を高めていく。目標通り、起業から10年ほどで受注と発注の割合は半々となり、やがて業務がほぼ発注で占められるようになるまで約15年ほど費やした。もちろんそのためには直接デザインを受注しなくてはならない。広告代理店を経由した受注もあったが、直接でないぶん情報が歪んでしまい随分回り道を余儀なくされたり、辛い思いもさせられたので極力直接クライアントから受注することを心がけてきた。相手の顔が見えるから言い訳が許されず、結果を問われるシビアな仕事になるけれどその分やり甲斐もある。ぼくの性分にはこの方が合っていた。
もちろん、山もあれば谷もあった。やせ我慢していた時期に「好きなことをして暮らしたい」という希望が度々くじけそうになったこともあったが、それでも何とかしのぐことが出来たのは、「自分にはこれしか出来ない」と「嫌なことはしたくない(=嫌な人とは付き合いたくない)」という退路を断ったシンプルな覚悟だった。来月はどうなってしまうんだろうと頭を抱えるときには、「くよくよしても仕方ない。ケセラセラ、なるようになるさ」と朗らかな歌声が心の中から響いてくる。すると、なにか大きな存在が天上で計らっているように決まって空いた穴を埋める出会いがあった。
長年デザインをしてきて、ひとつだけ分かったことがある。希望が実現される。それは人との出会いに尽きるということだ。幹から枝が伸び、葉を広げるときには必ず節目となる新しい出会いがあり、そこから新たなネットワークが構築されていく。それを用意するのは運なのだろうが、運を呼び寄せるのはやはり自分自身。楽になると分かっていても、あえて我慢して嫌な人とは付き合わないぞと思い定めると、不思議なことに好い人たちに囲まれるようになってくる。何をもって好い人というのかは人それぞれだろうが、ぼくの場合はまずウマが合うこと、そして仕事相手は狡くなく潔い人であることに尽きる。「朱に交われば赤くなる」と「類は友を呼ぶ」は手を携えて、枝は節目を重ねながら空に向かって延びていく。こうして歳を重ねるごとに起業時に描いた計画図に近づくことができたのは幸せなことだったとつくづく思う。
デザインは一人で完結するものではない。依頼があって初めてスタートラインにつくことができる。そこが芸術などの表現行為ともっとも異なるところ。だから、依頼が持ち込まれるまでは頭の中を白紙にしておかなくてはならない。いつ何時どのような依頼が舞い込んできても、頭の中の真っ新な紙にスケッチが始められるよう、自然体をキープしておかなくてはならない。もちろん信念はデザイナーを支える大事な要素だが、それは自己主張したり自己表現するということでは決してない。むしろ可能な限り自我は消して臨みたい。ある要望を持って依頼してくるクライアントと、その要望を伝えたい対象者が居る。デザイナーはこの両者のどちらにも偏ることなく、厳密な意味の中間点で依頼された要望の具現化に知恵を巡らす。往々にしてクライアントの要望は絞られておらず、混沌と散らかって収拾がつかない状態で持ち込まれることが多い。こんな感じのものが欲しいと具体的な要望を示されることもあるが、話を聞き込むと本来の要望点はその奥に潜んでいて、それではまったく解決できないケースも少なくない。依頼者の要望をできる限り叶えて提案することは当たり前だが、それだけで関係が持続するわけではない。ときには良い意味での掟破りも必要になってくる。小さなサプライズを提案に仕込んでおくことで関係の鮮度が保たれる。こんなこともさまざまな経験から学んできたことだ。
デザインはとても感覚的な仕事だと多くの人はイメージしているようだが、実は感覚が求められるのは全体の10%にも満たないのではないだろうか。大半の作業は散らかった課題点の整理整頓に費やされる。さらに市場調査やマーケティング情報も参考にしながら、関連資料の収集や仕込みが欠かせないとても地味な作業の積み重ねによって成り立っている。ぼくは大切なことは「直感」と「緻密な作業」のバランスなのだと思っている。例えば、ヒアリング段階でぼんやりとデザインの着地点が見えてくることがある。これしかないのではないかというくらい明快な着地点が見えてくることもある。こうした直感は往々にして鮮度も高く、外れることはあまりない。直感は日々蓄積される膨大な意識下の記憶量によってもたらされるものだと思うのだが、実はここからが本当は大事。着地点を具現化するための緻密な作業が求められてくるからだ。安易にゴールを急ぐとスカスカな着地点となってしまう。そこに至るまでの法則はないから、こればかりは各々のやり方で編み出していくしかない。
デザインは社会性を伴った視覚伝達行為であり、対象者の意識を喚起させる力を内在させておくことが求められる。多くの場合対象者は幅広い生活者となるため、時代意識として投影されるさまざまな暮らしの事象には広く(そして出来れば深く)アンテナをはっておかなければならない。例えばパッケージデザイナーにとって、スーパーマーケットが図書館となるように、普通の生活感に目をこらす。普通というキーワードは最大公約数の別称だが、時にはその普通を潔く切り捨てる勇気も持たなくてはならない。いかようにもシフトできる自在さを体得しながら、デザイナーは変化し続ける市場動向の奥にうごめく時代感覚に目をこらし、大胆に着地点を直感する事が求められる。それはいわば発信者と受信者との間に交信現象をもたらす現代のシャーマン(祈祷師)のような存在なのかもしれない。それが「好きなことをして暮らしたい」と漠然と願った若者がそれなりの紆余曲折を経て辿り着いた心境だ。そして、現代のシャーマンを目指し、真っさらな白い紙とできる限り長く向き合っていたいと新たな年のはじまりに、また漠然とそんなことを願っている自分がいる。


Blog Contents