上から
「岡田紅葉「神韻霊峰 七面山」昭和18年3月」、
「岡田紅葉「富士山」1950年」、
「岡田紅葉「霜枯」忍野村 昭和5年12月」、
岡田紅葉 近景。
Apple HP で8月11日「山の日」にちなんで
1日限定で公開された
「iPhone6sで撮影した新しい富嶽三十六景」(部分)。

2016.9.01

退職した男性が夢中になる代表的アイテムに、蕎麦打ち、陶芸、日曜大工、家庭菜園、釣り、世界文化遺産見学と並んで一眼レフカメラがランクインされているという。ずっしりとした一眼レフは、若かった頃には手の届かない高級品だった。そんな記憶をもつ人々にとってのそれは、自分もここまで来たんだという達成感の証でもあるのだろう。オヤジバンドに夢中になっている壮年ロッカーも同様で、憧れだったベンチャーズのメンバーが弾いていたモズライトをやっと手に入れて、家に帰ればトイレにまで持ち込んで抱きしめてるなんて話を聞くと、微笑ましいやら、もの悲しいやら…。

ところで、遅れてやってきたカメラ小僧はその一眼レフカメラで何を撮るのだろう。身近な人々や可愛がってるペットの撮影に夢中になるケースもあるだろうが、多くはその対象は自然へと向けられるのではないだろうか。こんな趣味もあるんですと、身をかがめて路傍の草花にレンズを向け、撮りためた作品を額装して診察室に飾る医師がいたり、トレッキングした先々で野草ばかり撮りためてネットにアップしたりと、楽しみ方もさまざまだ。

四季折々の風景を撮り残す古典的な楽しみの延長に「富士を撮る」という王道が鎮座している。日本人にとって富士は日本一の山。まさに不二の山なのである。その存在感は宗教的ですらある。その富士にレンズを向けようと、愛好家たちが山麓の撮影スポットに一年中集結してくる。中には自家用車をキャンピングカーに改造して、本格的な機材をどっさりと積み込んでは、泊まり込みでベストショットを狙う人々もいる。富士五湖周辺では日常的に大勢集結している、こうした撮影準備に余念がない重装備のアマチュアカメラマンたちを目撃することができる。

裏富士に位置するぼくの暮らす山梨では地元の富士を代表するイメージとして、富士山が鏡像として湖面に写り込む逆さ富士のカットや、青空に映える桜の花々の向こうに富士がひかえるカットなどが度々登場して目に焼き付いている。富士は四季折々、そして一日の中でも気象条件によって万華鏡のようにさまざまな表情を見せる。厳密に言えば一度として同じ表情は見せないはずの富士山なのだが、撮影された写真を見ると、どれも典型的な富士のイメージの中に見事におさまってしまっているのは何故なのか。同じ被写体なんだから似てくるのは仕方ないことだが、写真にはそうした表現としての宿命を超えていく可能性も秘められているはずなのだが…。

先日、地元にある考古学博物館に行くと、特別企画としてある写真展が開催されていた。それは岡田紅葉の撮った富士の作品展。日本に風景写真、あるいは観光写真というジャンルを切り拓いたと言われる岡田紅葉は、忍野村を拠点に富士山を撮り続けたことでも知られているが、オリジナルプリントを見るのはその時が初めてだった。

岡田紅葉は1975年、77歳でその生涯を全うするまでの58年間で、およそ40万枚にも及ぶ富士山を撮影したといわれる。彼が本格的に富士と向き合い始めた時期も関係しているのだろうが、圧倒的にモノクロ作品が多い。それも、通常の銀を感光させるモノクロプリントでなく、白金を用いたゼラチン・シルバー・プリントと呼ばれる焼き付けなので、ひきしまった黒と無限に近いグレーの階調は彼の向き合った富士の姿をさらに重厚に際立たせている。もちろん、多彩な試みが展開されているカラー作品も十分に刺激的だし、切手や紙幣の図柄に多く取り入れられた、もはや古典とも言える富士のイメージも印象深いものだったが、日本画や版画を連想させる抽象性に富んだ作品類は刺激的だった。こういう風景写真もあるのかと意表を突かれた思いだった。

岡田紅葉、本名岡田賢治郎は新潟で明治28年に生まれた。山水画の雅号をもつ衆議院議員の父や新潟初代知事を務めた兄をもつ学術一家の3男として、北国の自然のなかで自由闊達な幼年期を過ごしたという。やがて彼は早稲田大学予科に入学し、学業の傍ら友人から借りたカメラで初めて富士山に接して以来、その魅力のとりこになっていく。いったんは就職したものの、やはり写真で身を立てていくことを決意して東京府専属写真師となり、並行して富士山撮影にも情熱を傾けようとしたその矢先、あの関東大震災が起きた。運良く難を逃れた彼は荒れ果てた街に佇み、遥か先の紅に輝きだした富士の山肌を見てその荘厳さに感動する。そしてそのときふと心に浮かんだ「紅葉」という言葉が以後、彼のペンネームとなった。大正3年から65年間、原版にして38万枚もの富士を撮った紅葉だったが「1枚の快心の作がないのだ」と口癖のように語っていたという。

「今まで写した原板は大小数万枚に及ぶも、一枚として同じ富士山は写っていない。まして会心作などは1枚も見当たらない。1秒の何分の1かの時間が、どんなに尊いものかが解ってきた。そして大自然の摂理が、いかに冷厳であり、また反面、温情の恵み豊かさであるかが感得されたとき、私は限りない敬虔と感謝の念に打たれた。」(1970年 写真集「富士」 求龍堂刊)

紅葉は富士山を「富士子」と呼び「富士子に会いに行く」と言って富士への撮影に出向いたそうだが、4冊目となる写真集でこのように綴っている。

「(中略)14年前(終戦当時)ごろまでは主として彼女の外貌の美しさ、秀麗の姿に打ち込んできたが、近頃になって彼女の内面、心の良さに魅せられたからであろう。(中略)全く私は手に負えない気むずかしい恋人をもったものである。」

愛着から畏敬。写真を通じて富士と出会い、そして写真を超えて富士を愛した紅葉。

その彼の業績を残した岡田紅葉写真美術館のある忍野村には、シーズンともなれば今も大勢のアマチュアカメラマンが全国からやってくる。そして平成の紅葉よろしく、思い思いのアングルで自分の富士を写しとっていく。

趣味の領域を出ていないで、仕事のかたわら休日などに楽しみながら絵を描く人々は、職業画家とは区別されて日曜画家と呼ばれている。富士の裾野に集うアマチュアカメラマンも、いわば写真の世界の日曜画家なのかもしれない。刻々と表情を変え、ひとつとして同じ顔を見せない富士だが、何故か大半の彼らの風景写真は類型化している古典的なイメージに埋もれてしまっている。ベストアングルを狙えるスポットに競って陣取り、三脚を並べれば必然的に類型化してくるのは避けられない気もする。野山に分け入り、誰も据えたことのない場所に三脚を立てるへそ曲がりには、へそ曲がりの見たへそ曲がりの富士を写し取ることができるはず、と考えるのは門外漢の浅はかさなのだろうか。傑作と言われなくとも、それはそれで充分に「私の富士」であると思うのだが…。先日、そんな話をしていたら、知人が中学生のときに配られた夏休みの副読本の事を思い出し、その中に太宰治の見た富士の話があったと教えてくれた。そうだ!「富嶽百景」の冒頭の記述だ。

「(中略)東京の、アパートの窓から見る富士は、くるしい。冬には、はつきり、よく見える。小さい、真白い三角が、地平線にちよこんと出てゐて、それが富士だ。なんのことはない、クリスマスの飾り菓子である。しかも左のはうに、肩が傾いて心細く、船尾のはうからだんだん沈没しかけてゆく軍艦の姿に似てゐる。三年まへの冬、私は或る人から、意外の事実を打ち明けられ、途方に暮れた。その夜、アパートの一室で、ひとりで、がぶがぶ酒のんだ。一睡もせず、酒のんだ。あかつき、小用に立つて、アパートの便所の金網張られた四角い窓から、富士が見えた。小さく、真白で、左のはうにちよつと傾いて、あの富士を忘れない。窓の下のアスファルト路を、さかなやの自転車が疾駆しつくし、おう、けさは、やけに富士がはつきり見えるぢやねえか、めつぽふ寒いや、など呟つぶやきのこして、私は、暗い便所の中に立ちつくし、窓の金網撫でながら、じめじめ泣いて、あんな思ひは、二度と繰りかへしたくない。(後略)」(「富嶽百景」太宰治)

こんな「くるしい富士」、「クリスマスの飾り菓子みたいな富士」の写真だってあって良いではないか。 風景写真におけるプロフェッショナルとアマチュアのボーダーはどこにあるのだろう。前者と後者の違いは、完成度に関して撮影した作品数に占めるパーセンテージの違いだ、とある人は言う。つまりプロフェッショナルは質の高い作品をアマチュアより高い確率で撮り続けることができると。しかし偶然であったにせよ、素晴らしい作品が1点あれば、それでよいのではないかという人もいる。あるいはこんな考え方もあるかもしれない。登山家が登った山の上で、この光景は残しておきたいと撮影した写真はいわゆる記録写真だが、こういう写真をそこに行って撮りたいのだ、というイメージが前提として存在する山岳写真家の表現としての写真。この両者の違いは決して小さくはない。

今年から改正祝日法で新設された8月11日の「山の日」にちなんで、appleサイトのトップページには1日限定でiPhone 6sで撮影した新しい富嶽三十六景が紹介されていた。一眼レフカメラでなく、片手におさまるスマホカメラでカジュアルに写しとられた富士の数々。古典的な面影を残しながら、現代の富嶽三十六景はどこか軽やかだ。この富士山とスマホカメラを隔てる空間には、新しい時代の空気感が充満しているようにぼくには感じられるのだが、そのヒミツは向き合う心持ちの軽やかさなのかもしれないと思ったりもする。