Brochures of
  Amahata Inkstones Yahei Amemiya

2016.1.01

21世紀16年目の新春。阪神・淡路大震災や地下鉄サリン事件発生から丁度20年が経ったことになる。しかし、この20年という決して短いとはいえない時のスケールをぼくはいまだ掴みかねている。刻々と変化していく社会情勢は、5年はおろか1年先を見通すこともままならないし、10年あれば相当な事を為し得ることも不可能ではない。まして20年もあったなら…。そんなことを考えたのは、先日偶然或る報告書を発見したからだ。

90年代の数年間、ぼくは積極的に講演活動していた時期があったのだが、その報告書には1996年当時のぼくの講演録が掲載されていて20年ぶりに読み返してみると、今の自分のスタンスとほとんど変わりなく、まったく進歩していない。白髪がすっかり増えたり、身体にはそれなりに時の経過が刻まれている。なのに気持ちはまったくそれに対応していない。一般的にこうしたズレは10年ほど気持ちの方が若いというのが平均的であるそうだが、倍の20年というぼくは図々しいにもほどがある。さて、それはこんな講演録だった。

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図案する園丁

創造・科学、この遥かなるもの

夏のある日、私は岐阜の黒川さんからお電話をいただきました。「自分の所属している研究会の仲間と山梨に行くので何か話をしてほしい」ということでした。一瞬尻込みをしてしまったのは、創造科学研究会の「創造」も「科学」も私にとってはおよそ遠く隔たった所にある、守備範囲外の言葉であるように思えたからです。創造力と聞くと「かつて人間は創造という言葉に値する、一体どんなものを生み出してきたのだろうか…」などと考える懐疑的臍曲がりで、しかも私は1、2、3と実証的に順序だって物事を考えることができず、思考が1から5に飛んでしまうような、およそ科学とは縁遠い人間なので、創造と科学を研究されている方々に一体何の話ができるのだろうかと戸惑ってしまったのです。そんな私の不安を軽やかに受け流して黒川さんは「私たちは好奇心のかたまりなんですよ」と返してきます。対極にいる人間ほど面白そうだ、ということなのでしょうか。

実は数年前の秋、岐阜県美術館で行われたシンポジウムに参加して、岐阜の方々と語り合ったという楽しい思い出が私にはありました。それ以来、岐阜に好感を抱いていた私は研究会の軽快なフットワークにも興味がありましたから、とにかくお受けしてみることにしました。

森の中の地方性

その5年前のシンポジウムというのは岐阜のデザイナー協会の主催で行われ、テーマは「地方デザイナーの現況と未来」といったものでした。私はそこで自分のかかわった2つの事例を通して、表現するものにとっての地方性、そして個人的な世界観が地方において持ちうる可能性についてお話をしました。

「地方デザイナーの現況と未来」というテーマ設定の背後には、中央あるいは都市に対する地方の人たちの意識といったようなものが見え隠れしていて、その部分を自分なりに少し踏み込んで考えてみようと思ったのでした。

当時私が考えていた地方性というのは、都会があって、そこから離れたところに地方があるという、空間性の中から出てきた地方性ではありませんでした。「懐かしい心の古里」といったイメージ同様、それは現代の日本人がつくりあげてきた幻想に過ぎないのではないのかと私は感じていたのです。そこで、その地方性を一度、精神性に置き換えてみたらどうだろう。そうすれば、そこに日本人が心の奥底に抱え込んできた林や森のような姿をしたローカリズムというものが見えてくるような気がしたのです。

つまり、地方性というものは決して地方だけが抱えているものではなく、都市で暮らす人をも含めた、全ての人々が共有するものなのであって、さらに言えば、これは日本だけの問題なのではなく、もっと広がりをもったものなのではないのか。堂々とした標準語の世界をすりぬけて、いわば共通語に収まりきらない方言のような存在。強固な骨格をもち、システマティックに世界を突き動かしてきた標準語的なるものに対して、人々が精神のバランスをとるために必要としているもの。そこでローカリズムは一種の緩衝材として機能しているのではないのか、そんなふうに地方性をとらえてみたのです。今、思い返してみると当時の私のそんなやや強引な解釈はさほど的はずれなものではなかったようにも思われます。もっと正確に言えば、それは地方性が内包する文化についてのひとつの解釈であったのだろうという気がします。

私の仕事は個別的なものに対する共感から成り立っているようなところがありますから、必然的にデザイナーとしての私の興味はこのような文化的側面をもつ、きわめてローカリズムに富んだ人物との共同作業に注がれていきました。そのシンポジウムでは自身のかかわった二つの事例を紹介したのですが、当然のことながらデザインはデザイナーひとりで完結するものではありません。ここに一本の植物のように根をはって成長する何ものかがいる。そこに他のどんなものにも還元することができないような個別性の輝きがあれば、それに向かって私は自分のデザインを拓いてゆけるような気がするのです。それさえあれば一本の植物は、会社という組織体であれ、八百屋さんであっても一向にかまわないわけです。「絵画は多くのことを語りかけてくるが、言葉で叙述することは何ひとつない」というのはインドの詩人・タゴールの言葉だそうです。また「デザインはデザインを通してしか相手に伝わらない」という言葉もあります。何を言っても説明が言い訳に聞こえてしまいそうですが、今日は一つだけ私がかかわったデザインのお話をしてみたいと思います。

雨宮家という大木を前にして

東北の雄勝、西日本の赤間と並んで、山梨には雨畑という硯の産地があります。この雨畑でも最も古い「甲斐雨端硯本舗」の雨宮弥兵衛という硯匠からパンフレットの制作依頼がありました。それまで使っていたのは、これ以上質素なものはないという墨1色刷の栞。しかし、お宅に伺って驚きました。「元禄三年四月、雨宮孫右衛門身延山参詣ノ途次富士川ノ支流早川河原ニテ黒一色ノ石ヲ拾ヒ来り硯ニ作リタルニ始ル」と記されるよう、当主の雨宮弥兵衛さんで12代目、現在、東京芸大で彫金を教えている息子さんが今後13代目として継がれるという、綿々と続いてきた硯匠一家であります。当家に残る顧客名簿には新島襄、池田勇人といった名前がずらりと並んでいて、何でも当時の池田首相が訪米の際には、大統領への土産として持ってゆく硯を注文してきたとか。土産品みたいな硯だったらどうしようなどと考えていたのはまったくの杞憂に過ぎませんでした。とりわけ11代目雨宮弥兵衛(号は瀞軒)の、重厚さと飄逸さが同居しているような硯にぼくはすっかり魅せられてしまいました。

今は中国から1個300円の硯がどんどん輸入されている時代です。ならばトラディショナルなメイド・イン・ジャパンを胸を張って売るしかないと、当家の紹介と製品カタログの2部セットにして制作することを提案してみました。基本的なイメージとして、あまり和風べったりは嫌だなという思いがありました。当主は若い女の子とディスコに行くのを楽しみにしているという工芸家ですから、21世紀の江戸時代みたいな、トラディショナルなくせにちょっとラジカルな感じで組み立ててみました。タイポグラフィに筆文字を使わなかった理由もそこにあります。その代わり私は力のある文字が欲しかったので、屋号には明治時代に刷られた活版印刷物から一文字づつ拾い出して手組した文字を使ってみました。 またシンボルマークもつくりました。こちらはシンプルモダンなマークの対極にあるような、繊細で軽快でしかも複雑なものにしたかったので、この家の硯の基本パターンをすべて正円の中に細い線だけで押し込み、重ねてシンボル化してみました。表紙には硯がぼんやりと浮かび上がるよう薄い紙が重ねてあります。カタログも同様に渋紙がかかっています。そこには原石が採れる霧深い渓谷からぼんやりと浮かび上がってくる硯のイメージがありました。裏表紙にはシンプルな直方体の玉華硯(ぎょっかけん)が、対向頁の原石のサーフェイスと対応しています。硯の原石はとても美しく、同時に厳しさをたたえています。そんな様々な表情を接写してコンピュータで彩色を施しました。

パンフレットには新旧の代表作を3点掲載しています。当初、当主の希望もあって庭の緑をあしらって撮影したのですが、何かわざとらしくて硯に失礼な気がしたので、ストレートに硯だけを撮り直したものを使いました。エッジは3本切って5ミリほどずらしてあります。どうしてこんなことをするのかと問われれば、池に小石を一つ投げ入れて、その波紋が硬質な硯をさらに堂々としたものに見せてくれるような気がしたからという答えしか思い浮かびません。また3原色の細いラインはモノトーンの写真への視覚的スパイスだと考えています。

また、家歴の中には白い月が浮かんでいます。中を開くとその場所にカラーのシンボルが現れるように配置してみました。パンフレットの中心には水墨画のような写真を入れることにしました。昔は原石が採れたという雨畑の山中に何度か撮影に出かけたのですが、残念ながら乱開発された地形がどのアングルにも入ってしまい、なかなか欲しい写真が撮れません。やむなく場所を変え、同じ山梨の渓谷で有名な昇仙峡で撮影したのがこの写真です。一方、カタログは製品を3つのカテゴリーに分けて、後から追加できるよう製本せずに挟みこみました。こちらはカラーでなく墨とグレーの2色印刷に、まったく同じ位置から再度撮影したハイライト版で、墨をさらにもう一度重ね刷りしました。それにより、質感を損なうことなく再現性にもリアリティをもたせることができたと思います。当主お気に入りの雅印を刷り込んだ帯でこの2冊を巻き、ダイジェスト版や価格表などを加えれば完成です。このパンフレットは、国内ではADC年鑑や国際タイポグラフィ年鑑などに掲載され、昨年はドイツのデザイン誌「PAGE」の日本特集でも取り上げられました。

個別性に潜む幽き(かそけき)ものたち

このように、これまで私がかかわってきたデザインの多くは、町おこしや地域の活性化といった晴れがましいものでなく、本当に個人的活動のささやかな支援です。その活動の深度が深い分、私はそこに確信をもってかかわっていくことが出来るような気がします。戦略的な町おこしとは、むしろ逆に距離をおいていたいと思います。町をおこすんじゃなくて、だったら一度倒してみることはいけないことなのか? 地域が活性化していったら本当にそこは豊かになっていくのか? にぎやかになることは豊かで楽しく、静かなことは本当に寂しいことなのか? 良質な地域性というものを、根元から再度じっくり考えてみる必要があるのではないか。特に自治体が文化を活性化のキーワードにすることには細心の注意が必要です。文化というのは大地のようなものだと思います。あらかじめそこに存在しているのだけれど、それは見たり触れたりすることができない。それはかならず個人を通して実現されてきます。だからそこに平等や公平といった概念を持ち込んだとたん、そこに在った「かそけきもの」たちは壊れてしまいます。それらは画一性や公平論によって芽をつまれてしまう、微細で個別的な不安定なものたちなのです。

水平な風景の彼方

こうした「かそけきもの」たちにとっての受難の時代でもある現代の風景は、象徴的に言えばどこまでも水平な風景なのではないでしょうか。全国津々浦々、コンビニが増殖し続けています。それらを支えているのは画一性や公平論によって裏打ちされている人々の精神のミニ東京化なのかもしれません。コンビニの利便性は強固で、しかも柔軟な経済のシステムで支えられています。

単一であること。標準であること。平等であること。これら資本主義経済が生み出してきた潮流は、私たちの風景をますます水平なものに変えようとしています。では、この加速されてきた水平化の種は一体いつ、どこで私たちの庭に蒔かれたのでしょう。60年代のヒッピームーブメントをくぐりぬけ、国境を越えて水平に同化してゆこうと夢みたアメリカのリベラルな若者たちは、コンピュータという道具を生み出しました。そして今、そこから枝分かれしたインターネットにより、60年代のビジョンだった「ラヴ&ピース」は、情報の共有化によって世界が一つの村になるという「ワン・ヴィレッジ」というビジョンへと生まれ変わり、地球規模の平均化をさらに押し進めようとしています。

幸福な循環を求めて、もうひとつの必然へ

この巨大な水平化の潮流は今や世界を覆いつくす勢いで増殖し、これを押しとどめることは困難であると言わざるをえません。しかし私たちの精神には本能的にバランスをとることの必然性があらかじめセットされているような気がするのです。私たちが今、生きるという根源的意識から切り離されてしまったような、奇妙な不安を抱きながら暮らしていて、その閉塞感からリアリティのあるものに縋ってみたりするのには、生物学的な理由があるのだと思います。

冒頭お話したローカリズムも巨大なシステムに対するささやかな異議申し立てなのかもしれません。インターネットで文字化けをおこしてしまうフランス語に、フランスが異議の申したてをしたという記事を目にしました。ちょっと目を凝らしてみると、こうした水平化への異議申し立てはいたるところに見つけ出すことができます。

ディズニーランド的なエンタティンメントによって、ますます退行していくように感じられる個別的なもの。意味や価値が無化されてしまうような一方通行のコミュニケーションに対する危機感。ナンセンスに侵されつづけられているような奇妙な無力感。これら精神の水平化が現代の用意した一つの必然であるならば、私たちはもう一つ別な必然を見つけ出す必要があるでしょう。

システムとか社会といった言葉に還元してしまうことができないような、個別性への愛着で満たされた空間。異質なものや垂直的なものが、快適な状態で同居できるということの不思議さ。これが本当の多様性なのではないでしょうか。 水平が生み出す価値は物質量として膨張し続けますが、垂直が生み出す価値は量的に増加することはありません。ただその深度を増してゆくだけです。ここには幸福な循環があります。健康的な多様性。小さなものがたくさんあるという状態。そして小さなものが小さなままで、きちんと生存しつづけること。私は豊かさのかたちを、そのような個別性がわきたつような空間で見つけ出したいと考えています。

異質なものと共生していく知恵を、私たちは生み出すことができるのか。水平化の流れの中に、垂直な小さな木々を育てることができるのか。これらはすべて、神戸の大震災やサティアンが私たちに投げかけてきた深刻な問いかけでした。そしてそれは私たちが個別なものの価値に対して、今後どのくらい鋭い感覚を持ち続けることができるのか、という問いかけでもあったような気がするのです。デザインという空間で私は幸福な循環にかたちをあたえ、水平と垂直の交点で、図案する園丁として仕事をすることができたらと願っています。 1996.10

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20年を経た今、ますます直線に近づく「水平な風景」がもたらす深い怒りと絶望は、潜行しながら新たな不毛な戦いや暴力を日々生み出している。もはやローカリズムは巨大なグローバリズムの潮流に呑み込まれようとし、かつて存在したはずの豊かな多様性は無化されつつある。つまり、小さなままきちんと生存しつづけねばならない多くのものは、吹き荒れる NON NON NON の嵐によって消し去られようとしているのだ。膨張を続ける格差はさらなる過激な異議申し立てへの温床となり、異質なものと共生していく新たな知恵を私たちはまったく生み出せていない。そして、個別性がわきたつ空間に誕生するはずだった新しい豊かさのかたちはいまだに「願い」のまま漂っているのである。

そんな現在に生きているぼくは、20年という時の一束を前に、水平な風景に一体お前は何本の垂直な木々を立てられたのかと自問している。人生を20年の時の束で三分割してみると、絵の下地作りに費やしたのが一束目。その上に下絵を描いた二束目。そして、描き込みに集中する三束目はいまだ継続中だ。さて、筆を置くまで決して見る事はできないその出来映えや如何に。