上から
・ベルギーのリエージュ劇場ロゴマーク
・配色の類似性が指摘された
 スペインのデザイン事務所の壁紙
・五輪エンブレムの決定案
・五輪エンブレムの修正案
・五輪エンブレムの原案
・原案との類似性が指摘された
 Spain watches 「TIME FORCE」
・同じく原案との類似性が指摘された
 「ヤン・チヒョルト展」の各展開デザイン
 

2015.9.01

時事ネタは極力避けること、これがこのブログの基本姿勢だったが、今回はデザインに関する話題なので例外としたい。デザインの時事ネタといえば、言うまでもない東京オリンピック関連の一連の騒動だ。新国立競技場見直しが決定されたと思ったら、今度はオリンピック・エンブレム問題。何だか滑り出しからケチがつきっぱなしの2020年東京オリンピックだけど、その起因となるトラブルの種、実は同じ場所にひそんでいるような気がしてならない。

新国立競技場については、ずいぶん前から様々な問題提起がなされていた。たとえば2年前の2013年10月11日に、シンポジウム「新国立競技場案を神宮外苑の歴史的文脈の中で考える」が開催されたが、これはJIAマガジンに寄稿した建築家の槇文彦氏の提言がベースとなっている。

また、雑誌『週刊現代』2014年2月8日号には、建築家・伊東豊雄氏と中沢新一氏の「欠陥だらけの新国立競技場」という核心対談が掲載されている。さらに2014年5月8日には、記者会見と緊急シンポジウム 「新国立競技場のもう1つの可能性」が開催。そして2014年9月26日には、「それでも異議あり、新国立競技場 戦後最大の愚挙を考える」が「神宮外苑と国立競技場を未来へ手わたす会」の主催によって開催されている。

このように「?」や「NO!」が目白押しで、多くの人々が当初よりこのプロジェクトに疑問の声を挙げていたにもかかわらず、大きな世論のうねりをもたらすことはなかった。問題提起や懸念の声があがっていた経緯は、中沢新一さんが代表をつとめているGreen Activeに詳しいが、それに対するマスコミ報道は控えめなものでさほど注目されることもなく、プランが白紙撤回されたのはそれから2年も経ってからのことだった。結局、スタートラインは2年前と同じ位置のまま。時間だけが無駄に流れてしまったことになる。

だがこの計画の根本的な問題点は、見直しの発端となった高騰した予算のことだけでない。この建設地となっているのは「科学と伝統を結合しようという明治の技師たちや、全国から名木を献上する国民的運動に参画した人々の並ならぬ知恵と努力によって「東京のど真ん中」に作り出されることになった明治神宮」(Green Activeより抜粋)なのである。その自然や環境が二度と戻らなくなるような破壊をすることなく、修繕していくための視点の転換が建設計画には必要だったにもかかわらず、このような見識が計画案に反映されたという形跡はない。それらは黙殺され続け、現実的視点のみから語り出される計画案が、それこそ無計画に積み上げられてきたあげくの白紙撤回なのである。それを主導してきた意識はおよそ新世紀に相応しいものとは言い難いバブリーな前世紀末感覚と国家の威信を誇示するという前時代的幻想に包まれている。さらに深刻な問題点は、一体誰がどういう責任体系で進めていたのかが一切明らかにされることなく、平たく言えば呆れてしまうほど無責任なのっぺらぼうな決定機関によって着々と進められてきてしまったこと。その事実に今更ながら唖然とさせられる。

もちろん、オリンピック・エンブレム騒動にも、もはや現代日本の病根とも言える同様な意識が根深く横たわっている。あのエンブレムをデザインした佐野研二郎さんの仕事は、彼がデザイン界にデビューした当時からぼくも見ているから、力量はそれなりに理解していたつもりだった。しかし、新聞紙上で発表されたデザインを初めて目にしたときの印象は、とても稚拙で古風な意匠というものだった。国民の心をひとつに束ね、新時代へと牽引していくパワーがシンボルからはまったく伝わってこなかった。

佐野さんはデザインイベントの企画展出品ポスター「HOKUSAI_LINE」で2015年の亀倉雄策賞を受賞している。亀倉雄策氏といえば、言わずと知れた1964年東京オリンピックのデザインで知られる戦後の日本デザインを代表する人物である。そして、盗作疑惑に関する報道について東京2020組織委員会を通じて発表した佐野さんのコメントには「…この東京2020エンブレムは、1964年の作品へのリスペクトを持ちながら、日本らしさを自分のなかで追求してデザインしました。」とある通り、亀倉氏への憧れと尊敬の念を明確に表明している。だから、佐野さんのエンブレムデザインに亀倉氏の代表作とも言える1964年東京オリンピックデザインの残香を感じるのは不思議なことではない。選考過程でその残香が決定に向けて背を押したのかもしれないと推測もしたのだが、本人はさらに進化させるつもりだった表現の造形的完成度が残念ながら遠く及ばなかったのも事実だと思う。発表作は構成要素がしっかりと思想として視覚的に着地していない。つまり一見強そうにみえるその意匠は、不明瞭で不安定で分かりにくいパーツの集合体のまま、造形的には脆弱で凡庸な印象となってしまっている。寄せられた多くのコメントにもあるようにスポーツの祭典を連想させる躍動感が意匠からは伝わってこない。一般の人の直感というものは決してあなどることはできないと思う。

今回の決定案を「盗作」と主張しているのは、ベルギーのリエージュ劇場のデザインを担当したベルギー東部リエージュ在住のデザイナー、Olivier Debie(オリビエ・ドビ)氏。彼の制作した劇場ロゴはTHEATRE DE LIEGEのTとLを明快に表現している。盗作云々の前に、まずぼくはデザインとしての善し悪しが気になってしまうのだが、造形的完成度は劇場ロゴの方がはるかに高いと思う。

オリビエ・ドビ氏は、佐野さんが会見で「1964年の東京五輪のエンブレム以外は、何の影響も受けていない」と主張した点について「デザインの制作過程や着想について全く説明できていない」と非難。「リエージュに行ったことはなく、ロゴのデザインを知り得ない」としていることについても「ロゴはネット上に広く掲載されている」と反論して、著作権を侵害されたとしてエンブレムの使用中止を求め、国際オリンピック委員会(IOC)と、日本オリンピック委員会(JOC)に対して、エンブレムの使用を差し止める訴えを起こしている。担当することになったのはベルギー王室顧問弁護士も勤めるヨーロッパ圏を代表する敏腕弁護士、アラン・ベレンブーム氏。ベルギー側は本気なのだ。ドビ氏が心血を注いで生み出した表現物のオリジナリティが侵されるような心情は理解できる。だが半面、ロゴマーク制作の難しさも認識しておかなくてはならない。

ロゴマークというのは象徴性の強い造形である。必然的に単純化を推し進めていくと、類似形を呼び寄せてしまう宿命を背負っている。時代や国籍、文化や風土が異なっていたとしても、同じ人間が考えることにそう大きな隔たりがあるわけではない。似たようなことを考え、似たようなものを作ってしまう可能性はとても高いのではないだろうか。

事実、このブログの2008.6.02でも紹介したが、ボスコが制作したマークが、その14年後に発表された「博報堂」の新しいグループマークのロゴに酷似していたことがあった。(ちなみに、佐野さんも博報堂出身である)博報堂マーク制作者がボスコ制作のマークを見ていた可能性はかなり低いと思う。同様に佐野さんもベルギーの劇場ロゴを見たことがないというのは事実かもしれない。しかし、こういうことが起こるのである。ロゴマーク制作は常にこうした偶然による酷似の可能性や危険性をはらんでいる。オリジナリティとは一体何なのだろう。自分が生み出したと思っていたものは、実は過去の記憶の残像として深層に眠っていただけなのかもしれないのではないか。オリジナリティなんて、実は錯覚にすぎないのではないか。そんな疑問が自由闊達な発想に影を落としてくる。

iPhoneに「Shazam」というアプリがある。とても優れもので、iPhoneに向かって自分で唄ってもいいし、そこに流れている音楽の方向にiPhoneをかざしてもいい、「タッチしてShazamする」をタップすると、しばらくするとその音楽の曲名や作者、それに発売されているCDジャケットなどがほどなく現れてくる。これは見つけられないだろうというようなマニアックな音楽を聞かせても、苦もなくすぐに見つけ出してくれる。ならば、この検索機能を活用して自作曲に類似した音楽がないかチェックできるのではないかと思うのだ。そして、この技術を視覚的領域にも転用できたら、シンボルマークの類型チェックだって可能になるかもしれない。もしこの視覚版「Shazam」があったら、今回の盗作問題も事前に危険性を察知できたのに…などと考えてしまうのである。

ただ、これと似た機能をもった「Google画像検索」や「Yahoo!検索」 を使うと、ウェブ上の類似する画像を縦横無尽に検索することが可能になる。現在進行形でエンブレム問題はネット炎上し続けているが、ここに寄せられる盗作疑惑への多くの指摘はこれらの機能を活用したものがベースになっているようだ。夏休みの若者たちは比較的時間が自由に使えることも、問題を指摘されている当事者たちにとっては不運だったという声もある。一般の人々が、デザインされた表現物を簡単に世界中から情報収集してチェックできる時代がやって来るなんて一体誰が想像していただろう。中には言いがかりにすぎないような指摘も含まれるが、ネット環境はいたるところで専門性の壁を取り払っている。その功罪を即断することはできないが、この現実はもはや変えることはできないのだから、それを前提に議論は出発するしかない。

国際オリンピック委員会(IOC)はこの盗作疑惑に関して「大会組織委員会は長期にわたり、明快で透明性のある手順でこのエンブレムを選考した。正当な商標調査も経ている」とコメントしている。逆に言えばこれは、商標登録されたものしかチェックしていなかったということになる。つまり、件の劇場ロゴは見逃していたということだ。実にアナログ対応ではないか。これではまったく21世紀的とは言い難い。東京五輪組織委員会によれば、「このデザインは昨年の11月に内定し、それから世界各国の商標を確認しながら抵触しないよう微調整を加え、IOCの承認を経て、現在、国際商標登録の手続きを済ませているので問題になるとは考えていない」と伝えられている。(実際は登録は完了しておらず申請中)IOC総会では、コーツ副会長が「劇場のロゴは商標登録で保護されていないから問題ない」とも言及している。

しかし、問題視されていることは似ているというシンプルな疑問なのに、商標登録してないから似ていても問題ないという主張は事の本質を取り違えている。当然、選考にあたっては専門家を交えた選考会を経て決定したようだが、そのプロセスも当初はまったく公開されていなかった。選考にあたったグラフィックデザイナーは、審査委員長の永井一正氏、審査員には浅葉克己氏、細谷巖氏、平野敬子氏、長嶋りかこ氏らの名前が公表されている。また、菅義偉官房長官は7月30日の会見で「似てるかどうかは個人の主観の問題」と発言して、政府としての正式なコメントは避けている。その後、エンブレム盗作疑惑に端を発して沸き起こった、佐野さんのその他のデザイン作品を巡る疑惑問題についても、東京大会組織委員会は「組織委員会とは無関係」とコメントしている。このように主催者サイドから散発的に伝わってくるのは、及び腰の受け身なコメントや法的見解ばかりで、どうしても決定した既成事実を押し通してしまおうと必死で守勢にまわっている印象が強い。

ぼくは良いデザインを選びとる「力」の重要性を常々感じてきた。良いデザインとそれを選びとる「力」。この二つが存在しなければ、良いデザインは決して生まれてこない。デザインは理屈じゃない、感じることが大事だという人もいる。しかしそれだけでデザインのもつ持続性や普遍性を理解することは一般的にはなかなか難しい。それが本当に良いデザインなんだと納得してもらうためには、それを理解してもらう努力を惜しんではならない。何故なら芸術作品と異なり、デザインは専門知識をもたない一般の人たちに向けて発信されるという社会的役割を担っているからだ。だからこそ、それをどのような見地から選びとったのか、分かりやすく、そして丁寧に説明することが求められてくる。

沸き起こる「NO」の声の嵐に押されるように、やっと8月26日になって審査委員の代表、永井一正氏が取材に応じた。それまで組織委からはコメントしないよう要請されていたそうだ。しかし「これ以上勘ぐられるのはよくないということで、『もう話してもらっていい』と言われていた。」ということらしい。勘ぐられるというのも本末転倒な話で、そもそもこうした人の口に戸を立てるようなことをするから勘ぐられるのだという現実を組織委は認識していない。永井氏は初案はベルギーの劇場ロゴとは似ていなかったとコメントした上で「(原案と)似たようなものがほかにあったようだ。そのため佐野さんの案は、元のイメージを崩さない範囲でパーツを一部動かすなど、組織委の依頼で何度か微修正された」と明かしている。そして修正されたものを各審査委員も確認した上で正式発表されたのだそうだ。

その後、29日には永井氏同席のもと、エンブレム決定までの変遷を説明する異例の会見が大会組織委員会オフィスで開かれ、原案と修正後のデザイン案、そして最終案がそれぞれ公表されたのだが、はやりこうして並んだデザインを見ると、ぼくは初案も決して評価するものではないが、修正することの難しさが浮かび上がってくる。ロゴマークはシンプルなエレメントで成り立っているケースが多いためとてもデリケートなものだ。だから微修正であっても原形に手を加えるとその鮮度が落ちていくことは否めない。今回の制作過程にもそうしたことが起こったのではないかと推測できる。鮮度を落とすくらいなら佐野さんが一から作り直すという選択肢もあるが、やはり次点作から選び直すというのが筋だと思う。そのための次点作なのだから…。

さらに修正前の原案に関しては新たな類似例も浮上している。それはSpain watches 「TIME FORCE」と2013年にgggで開催された「ヤン・チヒョルト展」の各展開デザイン。「ヤン・チヒョルト展」デザインを担当したのは武蔵野美術大の白井敬尚教授ではないかと言われているが、白井さんは古い知人の一人なので、彼の困惑している様子が目に浮かんでくる。

かように、この問題は世論の動向や訴訟の進展をにらんで流動的な動きをみせているので、もはやデザイナー一個人の問題にとどまらず、現時点ではどこに着地するのかも定かではない。そもそも五輪が何を目指すのかといった明快なビジョンと思想が共有されていなかったこと、加えて、唯々運営サイドの事務的に事を進めてしまおうとする意識が一連の騒動を巻き起こした要因となっている。

それとこのプランが選ばれた背景は、選考にあたっての評価ポイントが64年オリンピックの時代とは変わってきているということも無関係ではないだろう。当時はまず明快な形が目に飛び込んでくることが求められた。新聞紙上で藤崎圭一郎氏は「今回も含め、形の求心力より、展開という遠心力を求めるのが、近年のデザインの傾向だ」と指摘している。「紙媒体が中心だった前回の東京五輪の時代と異なり、グッズや映像媒体、空間での展開も踏まえてデザインが選択されやすい」という意味なのだろう。しかし、だからこそ、さらに洗練された形の求心力が求められてくるのではないだろうか。

エンブレムデザインがベルギーのリエージュ劇場のロゴマークと似ているとされる問題を受けて、8月5日、記者会見場に現れコメントしたのは制作者の佐野さんのみだった。ぼくは、やはりその場に選考者やコンペを実行した組織責任者も同席させるべきだったと思う。後の会見で永井さんも「個人的には、ほかの応募案や審査の過程も公表した方がいいと思う。」と言っている。閉鎖的な情報操作を行った結果として、その後の対応が後手後手に回った今回の騒動をみていると、プロセスを公開することの意味は決して小さくはないことを痛感する。

入選して次点となった原研哉氏や葛西薫氏の応募案公開も含めて、選考にあたっての考え方や選考基準を説明したうえで、どのような理由で佐野案に決定したのかをまず報告すべきだ。そのように選考プロセスをガラス張りで公開すれば、なるほどそうだったのかと腑に落ちるし、選ばれなかった案の制作者たちにとっても、次に繋がる重要な情報を把握できるし、応募したことの意味も蓄積できることになる。これが良質な情報循環というものだろう。専門性を楯に取った選考の密室化は間違いなく時代意識と逆行している。下手に選考基準や選考プロセスを公開すれば、言いがかりや難癖をつけられて面倒くさい対応に追われるのではないかという打算も働いていたのかもしれない。専門家たちによるしかるべき選考を経て本案に決定しましたと高らかに宣言すれば、大方は納得するだろうという御上意識が見え隠れしている。開催に向けて運営を担う当事者たちがそんな意識のままなら、時代が求めているリアルな意識には到底追いつくことはできそうもない。今回の問題だけでなくこの国のさまざまなシーンにおいて、透明性の意味がずっと強く求め続けられているのは、明日に踏み出していくための希望は、実はガラス張りの良質な情報循環によってこそもたらされるのだと多くの人々が直観しているからなのだろう。

と書き終えたところで、1日午後「2020年東京オリンピックのエンブレムについて、大会の組織委員会は、佐野研二郎氏のデザインしたエンブレムの使用を中止する方針を固めた」と速報が流れてきた。時事ネタはこれだからやりにくい。「組織委員会はこのあと臨時の会議を開いて最終決定し、新たなエンブレムをどうやって決めるのかなど今後の対応を検討することにしている」そうだが、ネット炎上を繰り返さないためにも、ぜひ今度こそガラス越しの検討を期待したい。