Upper block:
Olle Eksell
Lower block:
Raymond Savignac

2014.5.02

オーレ・エクセル(Olle Eksell)は、1918年3月22日、ダーラナ地方に生まれた。彼は愛すべきスウェーデンのイラストレーター。1946年、アメリカに留学し、ロサンジェルスのアート・スクール・カレッジ・オブ・デザインで学ぶ。帰国後はフリーランスの立場を貫きながらグラフィックデザイナーとしても、ポール・ランドらの影響を感じさせる人なつこい作風でさまざまな仕事を残し、スウェーデンデザインの基礎造りに貢献したミッドセンチュリーのデザイナーとして多くの人々に記憶されている。晩年は視力をほとんど失い、2007年、89歳で他界した。

彼の代表作と言われているのが、マゼッティの「ココアアイズ」ロゴマーク。(上から二番目の写真)これはマゼッティが品質を保証する証として1956年にロゴマーク公募した際、両目がモチーフとなったロゴマークを出品し、オーレは見事優勝を射止める。これを機に彼はマゼッティの広告全般を担う看板デザイナーとして同社の知名度アップに大きく貢献していく。マゼッティがファッツェル社(ムーミン・チョコレートで有名)に吸収された現在も、オーレの作った当時のロゴマークは変わることなくパッケージなどに継承されている。

彼のグラフィックを支えているのは、何と言ってもそのフレンドリーでウイットに富んだ作風のイラストレーション。特に鳥をモチーフとした作品が愛らしい。生涯のパートナーであるルーセル夫人によると、実はエクセルは人物を上手く描くことができなかったらしい。いつも下手くそな絵になってしまうので試しに鳥をモチーフに描いてみたら、なぜか人の特徴が上手に表現できるようになったのだとか。そういうことってあると思う。直球では全然駄目だったのに、カーブを覚えたとたん名投手となってしまったような…。

上から四番目の作品はアルファベットで描かれた鳥たち。スウェーデン語、ドイツ語、英語、フランス語の順に「鳥」という言葉が描かれている。動物に躍動的な生命感を吹き込む不思議なオーレの才能は、鳥以外にも発揮された。なかでもペンは彼が得意としたファンタジックなキャラクターのひとつだろう。ぼくはある時、ペン(鉛筆)と鳥の登場するオーレのアニメーションを見たことがある。味わい深い小品は、こんな風にはじまる。

籠に閉じ込められた鳥がいた。その鳥を可哀想に思った鉛筆は、何とか励ましたいと考える。大空を羽ばたくことの出来ない鳥を元気づけるため、一体自分に何ができるのだろうかと思案する。そこで鉛筆が思いついたのは、いろんな花々や木々を描いて鳥の周りを埋め尽くすことだった。さっそく描きあげられた花や木を見て鳥はたいそう喜び、鉛筆に感謝する。幸せな気持ちになった鳥は、今度は鉛筆のために美しい鳴き声を披露しようと考える。こうして仲良くなった彼らの楽しい日々は静かに流れていくのだが、それでも時折見せる、籠から遠くをぼんやりと眺める鳥の淋しげな表情を鉛筆は見逃がさなかった。そんな鳥の気持ちを何とかしてあげようと、鉛筆は前にも増して、来る日も来る日も一生懸命描き続ける。しかし彼らの幸福な日々はいつまでも続かない。せっせと描き続ける鉛筆は次第に短くなっていく。そしてとうとう残りわずかとなってしまった鉛筆は、最後の力を振り絞り一枚の絵を描き上げ、忽然と姿を消してしまう。そこに描かれていたのは一本の鍵だった。それは籠の扉を開く鍵。そうしてやっと扉を開けることができた鳥は、鉛筆の想いとともに勢いよく羽ばたきながら大空に消えていった。

このシンプルな物語の中には、運命や忍耐、献身や利他の心、希望や倫理感など、深淵な人生の機微がたっぷりと詰まっている。胸を熱くするファンタジックなアニメーション。

老人になっても少年の心を宿し続けたオーレは、最後まで青春のただ中を生き続けた。青春とは人生のある時期を示す言葉ではなかったのだ。たとえ老いても、瑞々しい心はいつだって青春の中に生きている。

ぼくはイラストレーションが描けないし、そんな才能もないから、オーレのようなデザイナーにはいつも憧れを抱いていた。日本には(2008.9.02のブログで取りあげた)U.G.サトーさんもいる。そのU.G.サトーさんを通じて強く意識するようになったのは、フランスのポスター作家、レーモン・サヴィニャック(Raymond Savignac)。オーレより10歳ほど年長だが、このタイプのデザイナーとしてはオーレの先輩格といえそうだ。

サヴィニャックは1907年の11月6日にパリ15区で生まれた。庶民階級だった彼は美術学校に入ることができず、工業デザインを学ぶために夜学に通う。26歳の時に憧れていたカッサンドルと初対面を果たし、その場で仕事を与えられ、同時に臨時の助手として雇ってもらうという幸運を射止めるが、ここからがサヴィニャックの長い修行時代のはじまりでもあった。

今でこそ広告を支えるメディアはTV CM、サイト、新聞や雑誌広告、DM、フライヤーと多岐にわたるが、当時の花形メディアといえば、それはポスター。彼はポスター作家として様々な試行錯誤を繰り返しながら、オリジナルのスタイルをどのように築くかという課題と向き合う日々を送っていたが、何とかスタイルを確立しはじめた頃には、彼はすでに40歳を過ぎようとしていた。そして、やっと訪れた転機は41歳の時。すでにポスター作家として活躍していたベルナール・ヴィユモと2人展覧会を開くことになり、そこに出品した「自分のお乳で石けんをつくり出す牝牛」ポスターがある人物の目にとまった。その人物は実業家ウジェーヌ・シュレール。

実はこのポスター、以前、シュレールの経営する会社の一つであるモンサヴォン社のために制作し、お蔵入りとなっていたものだった。このポスターに感動したシュレールは、すぐに原画を買い取ってポスターを印刷することにした。そして、サヴィニャックはこのモンサヴォン社のポスターをきっかけに一躍人気ポスター作家としてデビューを果たすことになる。後に自伝でサヴィニャックはこう書き記したそうだ。『わたしは41歳の時にモンサヴォン石けんの牝牛のおっぱいから生まれた』。ユーモラスで温かく、しかも力強い簡潔な視覚メッセージ。20世紀の名作ポスターである。

こうして、遅咲サヴィニャックの黄金期は1950年に幕を開け、ペリエ、ピレッリ、チンザノ、オリヴェッティ、ダンロップ、エールフランス、ティファール、ルノー、ミシュラン、ペプシなどなど、日本人にも馴染み深い企業のポスターをサヴィニャックは精力的に制作し、多くの名作を生み出した。 特に深く関わったのがボールペンで有名なビック。サヴィニャックが生みの親となったボールペン頭のキャラクター『BIC BOY』は、今や同社を代表するイメージとなっている。しかし1970年代になると、フランスにも合理的に分業制作する「代理店システム」がアメリカから入ってくるようになる。イラストの代わりに写真が多用される現代的広告制作システムだ。こうした傾向にうんざりしていたサヴィニャックは、次第に広告業界への苛立ちをつのらせていった。そしてとうとう生粋のパリジャンだった彼はノルマンディー地方に居を移し、晩年を過ごす決意をする。

依然として広告業界は代理店システムが主流であったが、サヴィニャックのような手描きポスターをフランスの人々は決して忘れることはなかった。そして彼のポスターに秘められたヒューマンパワーに可能性を託そうとした企業がとうとうあらわれた。1981年、業績不振にあえいでいたシトロエン社の広告キャンペーンポスターでサヴィニャックは劇的な復活を遂げ、フランス最高の手描きポスター作家としての評価を確立する。その後彼は生涯現役を貫き、95歳の直前までそのデッサンの手を止めることはなかったという。

ところで、サヴィニャックは日本企業ともコラボレーションしている。アートディレクター大貫卓也が手がけた豊島園のポスターシリーズ、7つのプールでブタと白クマの2種類を制作したことは記憶に新しい。また、サントリーや森永チョコレートもユーモアたっぷりのサヴィニャックの世界を愛した日本企業だった。

オーレやサヴィニャックは、いわば肉声の表現者。共に完結していることも共通点。決して彼らは分業しない。フル稼働するのは、一体化した一人の人間の頭と手だけ。そこから生み出される人間への深い愛に根ざしたユーモアは、万国共通の伝達視覚言語として生まれ変わる。より深く、心を揺さぶる力強いユーモアは、地域や世代や時代を超えて、デジタル時代のいまも力強く生き続ける。それは機知や哀感に包まれて不思議な伝達力を発揮する、永遠のイラストレーションの錬金術が生み出した宝物なのだ。